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訓練場の空気はいつ来ても同じ匂いがする。油と砂と、金属の乾いた熱。朝の冷えが残っているのに、射座の周りだけは少しだけ温度が違う。そこに立つと、身体の中の現場じゃない部分が一気に引き締まる。
防染課にいるとこういう場所は遠い。わかってる。遠いのが当たり前で、だからこそ定期訓練の日は変に緊張する。
「お、来たな」
ソルバが先に来ていて、射座の端でグローブを弄っていた。背中に余裕がある人間の立ち方だ。装備を持って立っていても、肩が上がらない。視線が落ち着いてる。沿岸警備隊出身、って肩書きだけでも納得する。
「あ、おはようございます、ソルバ先輩」
「敬語やめろって。ここ、分隊長いないし」
「え、でも……癖で」
「癖は直せ。射撃は癖が死ぬ」
ソルバは笑いながら言う。でも笑ってるのに、言葉が軽くない。あたしは「はい」と言いかけて、飲み込んだ。
「……うん」
射撃場の奥には、機動防染隊の隊員たちがもう整列していた。防染課と違って、装備の密度が高い。防染の装備は消すための道具が中心だ。機動防染隊は止めるための道具が多い。見ているだけで目的の違いが肌に刺さってくる。
そして、今日はイーゼルがある。
82式自動小銃。対彩獣の装備だって説明されるけど、あたしにとってはもっと単純に、「苦手なやつ」だった。最後に触ったのは三か月前の定期訓練。あのときも点数はギリギリで、教官に「射撃は才能じゃない、反復だ」って言われて、反復のほうが苦手だって心の中で言い返した。
……もっと前。初任教育のときは最悪だった。
イロドリ調査隊に採用されてから最初の教育隊。銃の持ち方がわからないとかじゃない。わかってるのに、当たらない。わかってるのに、呼吸が乱れる。わかってるのに、引き金を引く瞬間だけ身体が固まる。
「反田。もう一回」
「反田。再履修」
「反田。姿勢からやり直し」
何回「反田」って呼ばれたか数えたくない。あたしの名前は、あの頃は叱責の音だった。
だから今日は、訓練場に来るだけで少し胃が重い。分隊長の前では平気な顔をしていられるのに、銃の前だとあたしはすぐに素が出る。
「顔が固い」
ソルバが横から言った。
「固くない」
「固い。ほら、肩」
言われて初めて気づく。あたしの肩は上がっていた。息が浅い。
「……うるさい」
「怒るな。固いと当たらん」
ソルバはそう言って、受付で弾薬と貸与装備の確認を済ませる。動きが速い。無駄がない。沿岸警備隊の保安部隊、ってこういう感じなんだろうか、と勝手に想像した。
あたしにもイーゼルが回ってきた。手に取った瞬間、重さが腕に乗る。拳銃の握る重さじゃない。これは支える重さだ。前に倒れようとする重心を、身体の中心で受け止めて、線を通す。
分隊長が言ってたことがふと浮かぶ。
――線。
現場の線。境界の線。割れ目の線。今日のあたしには銃の線がある。照準線、肩から肘、手首、銃口へ通る線。線が通らないと、当たらない。
「反田、射座入れ」
教官の声が飛ぶ。機動防染隊の教官は、声が違う。防染課の人の声は「指示」だけど、この人の声は「命令」に近い。短く、切れる。
あたしは射座に入って、マットの上に膝をついた。射撃姿勢は伏せではなく膝射。今日は基礎確認だから距離も短い。的は規定の円。色のないターゲット。白と黒だけ。いつもなら安心する配色なのに、今日は逆だ。白が怖い。白い紙に、あたしの弾痕が記録される。
「セーフティ確認。ボルト後退。チャンバー確認」
声に合わせて手を動かす。指が少し冷たい。グローブ越しでもわかる。金属の温度。ボルトの動き。カチ、という音が、やけに大きい。
「装填。射撃準備」
弾倉を差し込む。確実に。叩き込む。初任教育のとき、ここでミスったことがある。焦って差し込みが甘くて、撃てなくて、教官に無言で弾倉を抜かれて、あたしだけ射撃の列から外された。
今日は、抜けない。
「よし」
小さく呟いてしまった。自分で自分を励ますみたいで、情けない。
「呼吸」
ソルバの声が横から飛んだ。射座の位置は少し離れているのに、聞こえる。聞こえるくらい、あたしがうるさい呼吸をしているんだろう。
吸って、吐く。吐いて、止める。止める時間は短く。止めすぎると震える。引き金を引く瞬間だけ、息を預ける。
「撃て!」
教官の合図。
あたしは照準を合わせた。フロントサイトとリアサイトの隙間。そこに的の中心を置く。中心を置く、って言うのは簡単で、実際は中心が逃げる。目が勝手に外側に行く。怖いからだ。中心に当てるのが怖い。外すのが怖い。結局、怖い。
「……っ」
最初の一発。反動が肩に来る。身体がびくっとする。あたしはそれを誤魔化すために、すぐ二発目を撃ちそうになる。初任教育のときの悪い癖だ。焦って連射して、散らして、点数を落とす。
だから一拍置いた。
「待て。戻せ」
ソルバの声が言う。戻せ、って何を? と思う前に、あたしの中で答えが出る。銃口を中心に戻す。線を戻す。肩の線を戻す。呼吸を戻す。
二発目。三発目。四発目。
反動は痛い。でも痛いのはまだいい。痛いのは当たり前だから。怖いのは、当たり前じゃない感覚が出てくることだ。
五発目を撃ったあたりで、少しだけ静かになった。音が減ったわけじゃない。世界の音が遠くなる。あたしの中で余計な声が小さくなる。
「……今の、悪くない」
自分でもわかる。撃った瞬間、銃口が暴れなかった。照準が逃げなかった。
射撃終了の合図がかかり、銃を安全化する。ボルト後退。チャンバー確認。弾倉抜去。セーフティ。
一連の動作をやり終えたとき、やっと息ができた。
「ふー……」
声が出た。恥ずかしい。
ソルバが射座から戻ってきて、あたしの横に立った。
「な、固かっただろ」
「……うん」
「でも、途中から線が通った」
線。ここでも線だ。
「見てみるか」
的を回収する時間が来て、あたしは紙を受け取った。真ん中寄りにまとまっている。もちろん満点じゃない。でも、初任教育の地獄みたいな散らばり方じゃない。まとまってる。まとまってるだけで、少し泣きそうになるのが腹立つ。
「……当たってる」
「当たってるな」
ソルバは軽く言う。軽く言うのが優しさだって、あたしは知っている。
教官が巡回してきて、的を見て頷いた。
「反田。前よりいい。次は立射でも崩すな」
「はい」
射撃訓練が終わると、休憩を挟んで機動防染隊の対テロ訓練の見学になった。見学、と言っても距離は近い。ここは訓練場であり、実戦のための場所だ。見せること自体が訓練の一部なんだと思う。
コースは建物を模した簡易施設。角張った壁、狭い廊下、複数の扉。そこを隊員たちが小隊単位で入っていく。動きが速い。でも、速さよりも揃っていることのほうが怖い。全員が同じタイミングで止まり、同じタイミングで進む。視線も、銃口も、まるで一本の生き物みたいに連動している。
「……すごい」
あたしが漏らすと、ソルバが「まあな」と言った。
「防染課はこういうのやらない」
「やらなくていい。役割違う」
「でも、同じ調査官で……」
「同じじゃない。俺らは後始末が仕事だろ」
後始末。そう言われると、なんだか悔しい。でも否定できない。あたしたちは、色が暴れたあとに入って、消して、封鎖して、報告書にして、終わらせる。終わらせるはずの仕事。
――でも、終わってないものがある。
分隊長の現場。線。
訓練施設の中から、破裂音のような合図が響いた。閃光が見える。スタングレネードの模擬だ。隊員たちが一気に突入する。動きが滑らかすぎて、現実感が薄い。訓練なのに。訓練に見えない。
廊下の角で二人がクロスし、互いの死角を補う。扉の前で一人が膝をつき、もう一人が肩越しに照準を取る。視線が合わない。合わないのに、意思が揃っている。
無関心とは逆の極だ。ここには過剰な関心がある。過剰な警戒が、過剰な準備がある。
あたしは、どっちが正しいのかわからなくなった。
訓練が一段落すると、機動防染隊の隊員たちが装備を外し、汗を拭きながら整列した。全員が同じ動作で水を飲む。あたしはそれを見て、妙な気持ちになった。
集団が、合図で動く。
最近、現場の噂で聞いた「色で集まる」っていう話が、頭の片隅に浮かぶ。カラーギャングとか、そういうやつ。あたしは見たことがない。防染課の仕事は個人を描かない。あくまで現象を処理する。だから噂は噂のままだけど、噂っていうのは、いつも現場の少し後ろを走ってくる。
ここで動いている集団は、色じゃなくて訓練で揃ってる。だけど、揃い方の怖さは似ている気がした。
「見学終わり。撤収準備」
教官の声で、空気が切り替わる。あたしは背筋を伸ばして、借用品を返却し、車両のほうへ向かった。
帰りの車両は、訓練場特有の静けさがあった。疲れているから、っていうのもある。車内には汗と油の匂いが混ざっていて、さっきまでの銃の感触がまだ手に残っている。
ソルバは窓際に座り外を見ていた。こういうときに黙っていられる人間は強い。黙っていられる人間は、余計なことを言わない。余計なことを言わないということは、誰かに期待させないということ。
でも、今日はあたしが黙っていられなかった。
「ソルバ」
「ん」
「沿岸警備隊のときも、こういう訓練してたの?」
ソルバは少しだけ笑った。笑ったけど、目は窓の外のままだ。
「似たようなのはな」
「保安部隊って、何してたの」
「暴動対処、警備、巡回。海の周りのごたごたを、こっちに出さない仕事」
ごたごた、って言い方が、やけに雑に聞こえた。雑に言うことで、細部を隠すんだと思った。あたしはそこに踏み込まない。踏み込むと、まだ明かされない理由に触れる気がしたから。
「暴動対処って……具体的には?」
「盾持って、列作って、押し返す。誘導、排除する、時々制圧もある」
さらっと言う。さらっと言うのに、言葉が重い。盾を持って列を作る、っていうのはつまり、そこに押し返す相手がいるってことだ。相手の個人は描かない。描かないほうがいい。描いたら、あたしの中で余計な色が生まれる。
「怖くなかった?」
あたしが訊くと、ソルバは少し考えてから答えた。
「怖いっていうより、慣れる。慣れるのが嫌だって思う日もあるけど、慣れないと死ぬ」
「……死ぬ」
「内務省の組織だろうが関係ない。現場は現場だ」
沿岸警備隊は国防省じゃなくて内務省の傘下。だから軍事組織じゃない。でも、現場は軍とか警察とか、そういう看板の違いを無視する。やることはやるし、起きることは起きる。
「海の上の任務もあった?」
「もちろん船にも乗った。巡視艇で沖に出て、警戒線張って、港に戻る。時々、救助もある」
救助、という言葉が出たときだけ、ソルバの声が少し柔らかくなった気がした。気がしただけかもしれない。でも、そう聞こえた。
「救助って……」
「遭難、転落、事故。海は静かに人を殺す」
あたしは黙った。海は静かに人を殺す。妙に詩みたいな言い方なのに、ソルバが言うと詩じゃない。現場の言葉になる。
車両が小さく揺れた。道路の継ぎ目を越えたんだろう。継ぎ目。線。今日一日、線ばっかりだ。
「ソルバはさ」
「ん」
「どうして、イロドリ調査隊に来たの」
あたしは言ってから少し後悔した。前職を辞した理由なんて、聞くべきじゃないだろう。
ソルバはすぐには答えなかった。窓の外を見たまま、少しだけ間を置いた。
「……使える技能があったからだ」
それだけ。
「保安部隊の経験が?」
「そういうのもある」
「それで、今は防染課の現場に来て……」
「後始末、って言っただろ」
ソルバがまた笑った。でも今度の笑いは、少しだけ苦い。
「あたし、射撃ほんと下手でさ」
急に話題を変えたのは、自分でもわかった。逃げだ。でも、逃げるのもたまには許してほしい。
「初任教育のとき、何回も再履修になって……今日も正直、怖かった」
ソルバはようやく窓から目を離して、あたしを見た。
「怖くていい」
「え」
「怖いのに撃てるなら、十分だ。怖くない奴は、勝手にやらかす」
その言い方は、分隊長とは違う種類の優しさだった。分隊長の優しさは、背中を支える。ソルバの優しさは、肩を叩く。
「……じゃあ、あたしはまだ大丈夫?」
「大丈夫だろ。今日、途中から線が通ってたしな」
また線だ。
車両が基地に近づき、窓の外にいつもの街の輪郭が戻ってくる。管理された色。安全な色。薄いのに息が詰まる色。
あたしは思った。分隊長が見ている線と、あたしが今日撃った線。まったく別の線なのに、どこかで繋がっている気がする。
終わり、って言葉が、少しだけ遠のいた気がした。
防染が終わらないなら、訓練も終わらない。
あたしの下手さも、終わらない。
でも終わらないものがあるから、続ける意味ができる――そんなふうに思ってしまう自分が、少しだけ怖かった。
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