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現場を離れたあとも線の感触が目の奥に残っていた。視界に焼き付いた、というほど強いものじゃない。ただ、思い出そうとしなくても勝手に浮かんでくる。まぶたを閉じると、アスファルトの継ぎ目が思考の中で延びていく。
防染車両の中は静かだった。走行音が一定で、揺れも少ない。こういう環境だと頭が余計なことを考え始める。わたしはそれを嫌って端末を立ち上げた。嫌っているのに、結局は見る。
再発の記録。過去五年分。第一管区だけ。小規模案件に絞る。
一致率は低い。少なくとも、表面上は。場所も原因もばらばらだ。ただ、共通点がないわけじゃない。色相が近い、彩因の傾向が似ている。決定的ではないが、無視できるほど弱くもない。
「……終わってない、か」
独り言にしては声が低すぎた。ハイマが隣の席で視線を寄こす。
「まだ引きずってるな」
「仕事だから」
「仕事だから、か」
ハイマはそれ以上言わなかった。言わないことで考える余地を残す。彼はそういう距離の取り方をする。わたしはその距離に何度も助けられてきた。
本部に戻ると、いつもより廊下が騒がしかった。足音が多く、会話が多い。内容は断片的だが、耳に入る単語は似通っている。
――再発
――規定内
――様子見
――念のため
念のため、という言葉が増えている。念のために確認し、念のために報告し、念のために何もしない。安全のための言葉が、判断を遅らせるために使われ始めている。
執務区画に入ると、クルリが自席から立ち上がった。姿勢がいい。こちらを見つけるのが早い。
「春野分隊長、お疲れさまです」
「お疲れ。測定データ、もう整理した?」
「はい。先ほどの現場分、一次整理までは終わっています」
端末を差し出され、わたしは受け取った。画面に表示されるグラフは整っている。整いすぎていると言ってもいい。異常はきれいに枠の中に収まっている。
「……きれいだね」
「はい。規定値内です」
クルリはそう言ってから、少しだけ言葉を探す間を置いた。
「ですが、その……分布が、やはり気になります」
「うん。そこだね」
わたしは椅子に腰を下ろし、端末を机に置いた。クルリは一歩引いた位置で立ったままだ。指示待ちの姿勢。真面目すぎるくらいだ。
「クルリ、率直に聞く」
「はい」
「今日の現場、どう思った?」
彼女は一瞬、答えを選んだ。正解を探す顔じゃない。言っていい範囲を測る顔だ。
「……正直に申し上げますと、終わったという感じがしませんでした」
「理由は」
「色が、残っているというより……戻ってきた、ように見えました」
戻ってきた。再発よりも、さらに嫌な言い方だ。けれど、感覚としては近い。
「怖かったか?」
クルリは首を横に振った。
「いえ。怖い、というより……困惑しました。手順は正しいのに、結果が出ない。そのこと自体が」
その答えに、わたしは少しだけ息を吐いた。恐怖じゃない。困惑。まだ、ここに留まっている。
「それでいい」
「……はい?」
「今は、困惑でいい。怖がる必要はない」
怖がる必要はない、という言い方が、どこまで本当なのか。自分で言っておいて、わたしは自信が持てなかった。
ハイマが資料棚の前で立ち止まり、背を向けたまま言う。
「困惑できるうちは、まだ安全だ」
「専門官、それは……」
クルリが戸惑った声を出す。ハイマは振り返らない。
「困惑しなくなったら、危ない。理由を考えなくなるからな」
わたしは何も言わなかった。肯定も否定もしない。否定できるほど、確信がない。
昼を過ぎた頃、内線が鳴った。上からだ。通達の件だろうと予想はついた。
「第一管区彩務部防染課、春野分隊」
短いやり取りと形式的な確認。再発案件の扱いについては現場判断を尊重する、という曖昧な言葉だ。責任は分隊長判断。つまり、わたしに被せるという意味だ。
受話器を置くと、クルリが不安そうにこちらを見る。
「分隊長……」
「大丈夫。想定内」
想定内、と言いながら胃の奥が少しだけ重くなる。想定内の負担が少しずつ増えている。
午後、別の現場から簡易報告が上がった。小規模。色相は違うが、症状は似ている。完全防染済みのはずの壁面に、薄い残留。数値は低い。だが、形が残る。
線ではない。今回は斑点に近い。けれど、配置が不自然だ。偶然とは言い切れない。
「……増えてるな」
ハイマが画面を覗き込む。
「件数はまだ誤差の範囲。でも、質が同じ方向向いてる」
「方向」
「消えにくい、って方向」
わたしは椅子にもたれ、天井を見上げた。色のない天井。均一で、安全な色。ここはまだ、管理されている。
「規定、変わるかな」
「変えないと追いつかない。でも、変えたらもっと現場が混乱する」
「……詰んでない?」
「詰んでるって言葉は、まだ早い」
ハイマは淡々と言う。専門官らしい冷静さ。わたしはその冷静さに少しだけ苛立ちを覚えた。
「冷静だね」
「冷静でいないと、分析できない」
「感情は?」
「分析の邪魔だ」
その言葉に、胸の奥がちくりとした。分析の邪魔。正しく、正しすぎる。
夕方、クルリが追加の整理資料を持ってきた。彼女なりに過去案件との比較をまとめている。線で囲った箇所が多い。強調しすぎて、逆に何を見せたいのかわからなくなりかけているが。
「分隊長、こちら……」
「ありがとう。十分だよ」
「いえ、その……」
彼女は言い淀んだあと、意を決したように続けた。
「色が、前より……粘る気がします」
その言葉にわたしは目を細めた。午前中、ハイマが使った言葉。現場言葉が、もう共有され始めている。
「そう感じた?」
「はい。落ちない、というより……離れない、みたいな」
離れない。粘る。溜まる。どれも、色を意志のあるものみたいに扱う言葉だ。危険だ、と頭ではわかっている。擬人化は、距離を縮める。
「その表現はメモにだけ残して」
「報告書には……?」
「正式文書には使わない。まだ」
クルリは少し残念そうに頷いた。真面目な人間ほど、正しく言語化することに希望を見出す。わたしはその希望を今は抑えたいと思った。
日が落ちる頃、執務区画の照明が自動で切り替わった。白色が強くなる。色温度が上がると、疲労が目立つ。
わたしは席を立ち、窓際に立った。外はもう暗い。街の光は管理され、過剰な色はない。安全で、清潔で、少し息苦しい。
「無関心なほうが、安全」
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。どこで聞いたのかは思い出せない。まだ、誰かの主張ではない。わたし自身の中から浮かんだ言葉だ。
色に関心を持たなければ、巻き込まれない。線にも気づかない。気づかなければ、仕事は終わる。
「……それでいいのか」
誰に向けた問いでもない。答えも求めていない。ただ、問いが生まれた事実だけが残る。
今日の現場は、壊れてはいなかった。誰も死んでいない。彩獣も出ていない。数字上は、すべてが正常だ。
それでも、確実にひびは入っている。
しかもそのひびは、音も立てず、誰の注意も引かない形で広がっている。線のように、境界に沿って。
わたしは窓から離れて机に戻った。端末を閉じる。今日はここまでだ。
終わった、と言うには早い。
終わっていない、と断言するほどの証拠もない。
だからこそ厄介だった。
この違和感は、きっと明日も消えない。
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