第二章 ひび割れ

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 夜がほどけきらない時間帯の現場は色が少ないぶん、こちらの感覚が過敏になる。空も路面も、建物の壁も、みんな同じ方向に沈んでいる。色が薄いのは安全の証明みたいなものだ――そう教わってきたし、わたし自身もずっとそう思ってきた。

 けれど今朝の沈み方は、少し違った。薄いのに、軽くない。透明なのに、息が詰まる。

 現場は第一管区の外縁、再開発区画の端だ。先週、工事車両の事故をきっかけに小規模な彩因逸脱が起きた。彩度計測機の記録では「偏重 灰」「随伴 淡黄」、いわゆるが路面と仮設フェンスに付着していた。死傷者は出ていない。市民の個別事情も、そこに残すべきものではない。

 つまり、いつもの案件だった。

 終わりも、いつも通りだったはずだ。防染班を投入し、規定手順で洗浄し、残留値を確認して封鎖を解除した。わたしが指揮官欄に署名して、報告書は上がっている。終わった。終わりにした。


 それなのに、今朝、同じ地点で同系色の反応が出た。


「……ほんとに、ここ?」


 背後から、ハイマの声がした。まだ眠気の残る低い声。だけど足取りはいつも通り軽い。わたしは端末の地図表示を指で拡大し、座標を確かめる。


「間違いない。警報が上がった端末のログも一致してる」


「再発ってやつか」


「再汚染じゃない。まだ工事止めてあるし、搬入もない」


 言いながら、わたしはフェンス際に寄った。仮設のコンクリートブロックと路面の継ぎ

 目。視界の端では、ただの影にしか見えない。目を凝らすと、ようやくが浮かぶ。

 線だった。

 塗られた線じゃない。描かれた線でもない。アスファルトの目地に沿って、薄い淡黄が滲み、さらにその淡黄が灰に溶けていく。色としては弱い。けれど、弱いからこそ不気味に見える。主張しないのに、そこにいる。


「……あるね」


 わたしが言うと、ハイマはすぐ横にしゃがみ込んだ。手袋の指先が、線のすぐ近くで止まる。触れない。触れたら、こちらの都合で確かめたことになる。今はまだ、見えていることだけを保ちたい。


「数値は?」


「規定値内。警戒域に入ってない」


「入ってないのに、警報?」


「パターン検知だと思う。前回の案件と一致したから、システムが拾った」


 わたしは彩度計測機を起動し、路面にかざした。画面に出るグラフは大人しい。残留反応は微弱。防染済みと判定されても不思議じゃない程度の値だ。

 けれど、目は騙されない。少なくとも、わたしの目はまだ騙されることを許していない。


「理屈では消えてる」


 ハイマがわたしの言葉をなぞるように言った。


「でも、現実には残ってる」


「うん」


 短く答えて、わたしは目地の上に視線を固定した。線は、まるで道路そのものの傷みたいに見える。最初からここにあったと言われたら、信じてしまいそうだ。そういう馴染み方をしている。


「これ、線だな」


 ハイマが言った。「点」でも「塊」でもなく、境界に沿って伸びるもの。わたしの中でも、その呼び方がぴたりとはまった。


「そう。線」


 口に出した瞬間、言葉が身体の内側で固まった気がした。線。形ではない。意味でもない。行為の痕跡のようで、自然の裂け目のようでもある。


「前は、こんな残り方しなかった」


 わたしが言うと、ハイマは立ち上がりながら肩をすくめた。


「昔って、どれくらい昔だ」


「わたしが現場に出てからの範囲でも、って意味」


「現場の年数で世界語るの、わりと大胆だな」


「うるさい」


 わたしは軽く返した。ハイマは笑わない。笑うときは笑う男だ。だからこそ笑わないとき、わたしは余計に胸の奥が冷える。


「ただの見落としじゃないんだろ」


「見落としだったら、わたしの責任」


「責任の話じゃない。構造の話」


 ハイマはそう言って、線の延長方向を目で追った。目地に沿って、フェンスの内側へ潜るように続いている。フェンスの向こうは立ち入り禁止の工事区画で、重機は止まり、シートが風に鳴っているだけだ。


「ねえ、ハイマ」


「なんだ」


「線ってさ、何かの始まりに見える?」


 ハイマは少しだけ考えた。


「始まりって言うより、割れ目だ」


「割れ目」


「裂け目でもいい。もともと一枚だったものが、何かでひびが入る。そこに、色が溜ま

 る」


 わたしは息を止めて、その言い方を飲み込んだ。。色が溜まる。汚染は付着であり、侵入であり、拡散だ。溜まる、という語感は違う。もっと受動的で、もっと自然現象に近い。


「世界が、色を拒まなくなってるのかな」


 わたしは自分でも意外な言葉を口にしていた。ハイマは「さあな」と言う代わりに、淡々と現実を押さえた。


「拒む拒まないの話は、あとでいい。今は、消えないって事実だけ残せ」


「……うん」


 わたしは端末の記録画面を開き、現場写真を撮る。線の見え方は、カメラだとさらに弱い。肉眼で感じる違和感が、画像になると薄まる。だから、わたしは撮影のあと、短いメモを添えた。

 ――視認できる線状残留。数値は低いが、位置が前回と一致。見落としでは説明困難。

 記録した瞬間、わたしの中で終わったはずという感覚が音を立てて崩れた。防染は、終わりではなかったのかもしれない。終わらせることが仕事だったはずなのに。

 背後で足音が近づいた。小さく、しかし迷いなく近づく歩幅。振り向く前に、声がかかる。


「分隊長、おはようございます」


 クルリが、出動服の襟を整えたまま、こちらに一礼した。まだ若い。現場の空気に慣れる前の硬さが残っている。目はまっすぐで、仕事に対してまっすぐすぎる。


「おはよう、クルリ。早いな」


「はい。通達が出てすぐ、準備しました。……こちらが再発の地点、でよろしいでしょうか」


 クルリの視線が、わたしとハイマの足元に落ちる。彼女には線がまだ見えていない。見えていないから、声に不安が混じる。


「そう。ここ」


「……数値は、正常範囲と聞きました」


「正常範囲。だけど、ある」


 わたしは簡単に言い、クルリに同じ位置を示した。彼女はしゃがみ込み、顔を近づける。眉が、ほんのわずかに寄った。


「……え」


 その一音で十分だった。理解したわけではない。ただ、のだ。見えた瞬間に、彼女の世界がほんの少しだけ歪む。


「これが……再発、なんですか」


「再発って呼ぶのは早いかもしれない。けど、消したはずの色が同じ場所に出てる」


「外部からの再汚染では……」


「工事は止めてある。搬入もない。前回の封鎖解除以降、人は入ってない」


 クルリは唇を開きかけて、閉じた。言いたいことが顔に出ている。それなら、どうして。彼女はそれを口にしない。階級の上下を知っているからではなく、真面目だからだ。口にしてしまうと、仕事が揺らぐと思っている。

 揺らいでいるのは、むしろわたしのほうだ。


「手順、間違ってたんでしょうか」


 クルリが、少しだけ声を落として訊いた。彼女の質問は、真面目で、正しい。だから刺さる。


「手順は正しい」


 わたしは即答した。逃げるための断言じゃない。断言できる。規定通りにやった。記録も残っている。


「でも結果が出ないことがある」


 口にした瞬間、クルリの目がわずかに見開かれた。規定が正しいのに結果が出ない。彼女が一番受け入れにくい言い方だ。


「……そんなこと、あるんですか」


「ある。今がそう」


 クルリは線を見つめ続けた。いま見えているものを、理解できる言葉に変えようとしている顔だ。わたしはその努力を止めさせたくなかった。止めさせたくないのに、止めるべきだという気持ちもある。考えるほど危険な世界になりつつある――そんな嫌な予感が、薄い朝の空気に混じる。

 ハイマが、会話の隙間に割り込むように言った。


「クルリ。これ、線だ。点じゃない」


「線……」


「色が境界に沿って残ってる。付着じゃなくて、溜まり方が違う」


 ハイマの言い方は、説明ではあるが、断定ではない。専門官らしい言葉の置き方だ。クルリは「はい」と返事をしてから、困ったようにわたしを見る。


「分隊長……線というのは、今後の報告書にもそのまま記載してよろしいでしょうか」


 規定にない言葉を規定の文書に入れることへの怖さが、彼女の中にある。わかる。わたしも最初はそうだった。けれど、現場は規定の外側から壊れてくる。


「いい。備考に書いて。正式用語じゃないことはわたしが責任持つ」


「……ありがとうございます」


 クルリは深く頭を下げ、すぐに端末を開いた。真面目だ。真面目な人間ほど、この世界では消耗する。色に関心を持てる人間ほど、彩獣に近づく――そんな相関を、わたしはまだ知らないふりをしている。知らないふりをしていないと、仕事ができなくなる。


「追加の防染、入れる?」


 ハイマがわたしに訊いた。


「入れたい。でも、入れたら線を強める気もする」


 わたしは自分でも変なことを言っていると思った。防染は色を消す。消すための行為が、色を強めるなんて、理屈に反する。けれど現実が理屈を踏み越えてきている。

 ハイマは「その感覚、嫌いじゃない」とだけ言った。好きとか嫌いとかの話じゃない。嫌いじゃないと言えるのが、彼の強さだ。


「まず、周辺の測定を広げる。クルリ、区画の外周、二十メートル刻みで取って。数値は低くてもいい、形を見たい」


「はい、了解しました」


 クルリはすぐ動いた。迷いがない。迷いがないから、現場が回る。

 わたしとハイマはフェンス沿いに歩き、線の延長を追った。目地は複雑に分岐している。線はその一部にだけ乗っている。まるで誰かがここを選んだみたいに。


「選ぶ、か」


 わたしが呟くと、ハイマが横目で見た。


「誰が」


「……わからない。でも自然現象って感じじゃない」


「自然現象でも選ぶときはある。水だって低いところ選ぶ」


「色は水じゃない」


「色も、溜まるって言っただろ」


 わたしは言い返せなかった。溜まる。割れ目に溜まる。ひびに沿って残る。今朝の線は、まさにその言葉の通りに見える。

 フェンスの向こうで、シートが風に鳴った。音だけが異様に大きい。色が少ない場所では、音も匂いも、輪郭が鋭くなる。わたしはその鋭さのせいで、思い出したくない感覚を思い出しそうになった。


 ――大学校の講義室。黒板に引かれた一本の線。

 ――「境界は、もっとも汚染が溜まる」

 そんな言葉を、誰かが淡々と言っていた。


「どうした」


 ハイマが訊いた。


「……なんでもない」


「ほんとに?」


「ほんと」


 わたしは歩幅を少しだけ早めた。ハイマが追いつく。追いついてしまう距離で、わたしたちはいつも一緒に現場を見ている。

 クルリの測定が終わり、彼女が戻ってきた。端末の画面をこちらに向ける。


「分隊長、外周の測定結果です。数値自体は低いのですが……その、分布が」


 画面には点のプロットが並び、その点を結ぶように、薄い帯状の偏りが見える。線だ。線が、別の線を呼んでいる。


「……粘るな」


 ハイマが言った。

 クルリが一瞬だけ「粘る?」という顔をしたので、わたしが補足する。


「落ちにくい、って意味。前より、色が……粘る」


 クルリはその言い方を反芻するように小さく頷いた。真面目な彼女が、現場言葉を覚えていく瞬間だ。そうやって現場の人間になっていく。現場の人間になっていくほど、見えるものが増える。見えるものが増えるほど、危険になる。

 わたしは、端末の報告入力欄を開いた。文章にする。文章にした瞬間、現実は制度の中に回収される。回収しないと、ただの恐怖になる。


 ――防染済み現場において、同系色の線状残留を視認。

 ――数値は規定値内であるが、前回事案と位置が一致。

 ――外部再汚染の可能性は現時点で低い。

 ――周辺分布に帯状偏りを確認。追跡継続。


 書き終えて、わたしは端末を閉じた。


「追加防染は、今日はやらない」


「理由は」


 ハイマが淡々と訊く。責める声じゃない。確認だ。


「線の性質がわからない。消す行為が、線を太らせる可能性がある」


 クルリが息を呑んだ音がした。彼女には突拍子もない判断に見えるだろう。けれど、現場は突拍子もないものが先に来る。


「監視と測定を優先する。封鎖は維持。通達はわたしから出す」


「了解しました」


 クルリは敬語で返す。正しい上下関係の形だ。わたしはその正しさに少しだけ救われる。正しさがあるうちは、世界はまだ壊れていないと錯覚できる。

 現場を離れる直前、わたしはもう一度振り返った。フェンス際の目地に、薄い淡黄の線が残っている。朝日が差し込み始め、線はさらに見えにくくなる。見えにくいのに、消えてはいない。

 終わったはずの場所に、終わっていないものがある。

 それは、再発という言葉で片づけるには静かすぎた。

 ひび割れの入り方としては、あまりにも控えめで、あまりにも確実だった。

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