第二章 ひび割れ
14/
夜がほどけきらない時間帯の現場は色が少ないぶん、こちらの感覚が過敏になる。空も路面も、建物の壁も、みんな同じ方向に沈んでいる。色が薄いのは安全の証明みたいなものだ――そう教わってきたし、わたし自身もずっとそう思ってきた。
けれど今朝の沈み方は、少し違った。薄いのに、軽くない。透明なのに、息が詰まる。
現場は第一管区の外縁、再開発区画の端だ。先週、工事車両の事故をきっかけに小規模な彩因逸脱が起きた。彩度計測機の記録では「偏重 灰」「随伴 淡黄」、いわゆる擦れた明るさが路面と仮設フェンスに付着していた。死傷者は出ていない。市民の個別事情も、そこに残すべきものではない。
つまり、いつもの案件だった。
終わりも、いつも通りだったはずだ。防染班を投入し、規定手順で洗浄し、残留値を確認して封鎖を解除した。わたしが指揮官欄に署名して、報告書は上がっている。終わった。終わりにした。
それなのに、今朝、同じ地点で同系色の反応が出た。
「……ほんとに、ここ?」
背後から、ハイマの声がした。まだ眠気の残る低い声。だけど足取りはいつも通り軽い。わたしは端末の地図表示を指で拡大し、座標を確かめる。
「間違いない。警報が上がった端末のログも一致してる」
「再発ってやつか」
「再汚染じゃない。まだ工事止めてあるし、搬入もない」
言いながら、わたしはフェンス際に寄った。仮設のコンクリートブロックと路面の継ぎ
目。視界の端では、ただの影にしか見えない。目を凝らすと、ようやくそれが浮かぶ。
線だった。
塗られた線じゃない。描かれた線でもない。アスファルトの目地に沿って、薄い淡黄が滲み、さらにその淡黄が灰に溶けていく。色としては弱い。けれど、弱いからこそ不気味に見える。主張しないのに、そこにいる。
「……あるね」
わたしが言うと、ハイマはすぐ横にしゃがみ込んだ。手袋の指先が、線のすぐ近くで止まる。触れない。触れたら、こちらの都合で確かめたことになる。今はまだ、見えていることだけを保ちたい。
「数値は?」
「規定値内。警戒域に入ってない」
「入ってないのに、警報?」
「パターン検知だと思う。前回の案件と一致したから、システムが拾った」
わたしは彩度計測機を起動し、路面にかざした。画面に出るグラフは大人しい。残留反応は微弱。防染済みと判定されても不思議じゃない程度の値だ。
けれど、目は騙されない。少なくとも、わたしの目はまだ騙されることを許していない。
「理屈では消えてる」
ハイマがわたしの言葉をなぞるように言った。
「でも、現実には残ってる」
「うん」
短く答えて、わたしは目地の上に視線を固定した。線は、まるで道路そのものの傷みたいに見える。最初からここにあったと言われたら、信じてしまいそうだ。そういう馴染み方をしている。
「これ、線だな」
ハイマが言った。「点」でも「塊」でもなく、境界に沿って伸びるもの。わたしの中でも、その呼び方がぴたりとはまった。
「そう。線」
口に出した瞬間、言葉が身体の内側で固まった気がした。線。形ではない。意味でもない。行為の痕跡のようで、自然の裂け目のようでもある。
「前は、こんな残り方しなかった」
わたしが言うと、ハイマは立ち上がりながら肩をすくめた。
「昔って、どれくらい昔だ」
「わたしが現場に出てからの範囲でも、って意味」
「現場の年数で世界語るの、わりと大胆だな」
「うるさい」
わたしは軽く返した。ハイマは笑わない。笑うときは笑う男だ。だからこそ笑わないとき、わたしは余計に胸の奥が冷える。
「ただの見落としじゃないんだろ」
「見落としだったら、わたしの責任」
「責任の話じゃない。構造の話」
ハイマはそう言って、線の延長方向を目で追った。目地に沿って、フェンスの内側へ潜るように続いている。フェンスの向こうは立ち入り禁止の工事区画で、重機は止まり、シートが風に鳴っているだけだ。
「ねえ、ハイマ」
「なんだ」
「線ってさ、何かの始まりに見える?」
ハイマは少しだけ考えた。
「始まりって言うより、割れ目だ」
「割れ目」
「裂け目でもいい。もともと一枚だったものが、何かでひびが入る。そこに、色が溜ま
る」
わたしは息を止めて、その言い方を飲み込んだ。溜まる。色が溜まる。汚染は付着であり、侵入であり、拡散だ。溜まる、という語感は違う。もっと受動的で、もっと自然現象に近い。
「世界が、色を拒まなくなってるのかな」
わたしは自分でも意外な言葉を口にしていた。ハイマは「さあな」と言う代わりに、淡々と現実を押さえた。
「拒む拒まないの話は、あとでいい。今は、消えないって事実だけ残せ」
「……うん」
わたしは端末の記録画面を開き、現場写真を撮る。線の見え方は、カメラだとさらに弱い。肉眼で感じる違和感が、画像になると薄まる。だから、わたしは撮影のあと、短いメモを添えた。
――視認できる線状残留。数値は低いが、位置が前回と一致。見落としでは説明困難。
記録した瞬間、わたしの中で終わったはずという感覚が音を立てて崩れた。防染は、終わりではなかったのかもしれない。終わらせることが仕事だったはずなのに。
背後で足音が近づいた。小さく、しかし迷いなく近づく歩幅。振り向く前に、声がかかる。
「分隊長、おはようございます」
クルリが、出動服の襟を整えたまま、こちらに一礼した。まだ若い。現場の空気に慣れる前の硬さが残っている。目はまっすぐで、仕事に対してまっすぐすぎる。
「おはよう、クルリ。早いな」
「はい。通達が出てすぐ、準備しました。……こちらが再発の地点、でよろしいでしょうか」
クルリの視線が、わたしとハイマの足元に落ちる。彼女には線がまだ見えていない。見えていないから、声に不安が混じる。
「そう。ここ」
「……数値は、正常範囲と聞きました」
「正常範囲。だけど、ある」
わたしは簡単に言い、クルリに同じ位置を示した。彼女はしゃがみ込み、顔を近づける。眉が、ほんのわずかに寄った。
「……え」
その一音で十分だった。理解したわけではない。ただ、見えたのだ。見えた瞬間に、彼女の世界がほんの少しだけ歪む。
「これが……再発、なんですか」
「再発って呼ぶのは早いかもしれない。けど、消したはずの色が同じ場所に出てる」
「外部からの再汚染では……」
「工事は止めてある。搬入もない。前回の封鎖解除以降、人は入ってない」
クルリは唇を開きかけて、閉じた。言いたいことが顔に出ている。それなら、どうして。彼女はそれを口にしない。階級の上下を知っているからではなく、真面目だからだ。口にしてしまうと、仕事が揺らぐと思っている。
揺らいでいるのは、むしろわたしのほうだ。
「手順、間違ってたんでしょうか」
クルリが、少しだけ声を落として訊いた。彼女の質問は、真面目で、正しい。だから刺さる。
「手順は正しい」
わたしは即答した。逃げるための断言じゃない。断言できる。規定通りにやった。記録も残っている。
「でも結果が出ないことがある」
口にした瞬間、クルリの目がわずかに見開かれた。規定が正しいのに結果が出ない。彼女が一番受け入れにくい言い方だ。
「……そんなこと、あるんですか」
「ある。今がそう」
クルリは線を見つめ続けた。いま見えているものを、理解できる言葉に変えようとしている顔だ。わたしはその努力を止めさせたくなかった。止めさせたくないのに、止めるべきだという気持ちもある。考えるほど危険な世界になりつつある――そんな嫌な予感が、薄い朝の空気に混じる。
ハイマが、会話の隙間に割り込むように言った。
「クルリ。これ、線だ。点じゃない」
「線……」
「色が境界に沿って残ってる。付着じゃなくて、溜まり方が違う」
ハイマの言い方は、説明ではあるが、断定ではない。専門官らしい言葉の置き方だ。クルリは「はい」と返事をしてから、困ったようにわたしを見る。
「分隊長……線というのは、今後の報告書にもそのまま記載してよろしいでしょうか」
規定にない言葉を規定の文書に入れることへの怖さが、彼女の中にある。わかる。わたしも最初はそうだった。けれど、現場は規定の外側から壊れてくる。
「いい。備考に書いて。正式用語じゃないことはわたしが責任持つ」
「……ありがとうございます」
クルリは深く頭を下げ、すぐに端末を開いた。真面目だ。真面目な人間ほど、この世界では消耗する。色に関心を持てる人間ほど、彩獣に近づく――そんな相関を、わたしはまだ知らないふりをしている。知らないふりをしていないと、仕事ができなくなる。
「追加の防染、入れる?」
ハイマがわたしに訊いた。
「入れたい。でも、入れたら線を強める気もする」
わたしは自分でも変なことを言っていると思った。防染は色を消す。消すための行為が、色を強めるなんて、理屈に反する。けれど現実が理屈を踏み越えてきている。
ハイマは「その感覚、嫌いじゃない」とだけ言った。好きとか嫌いとかの話じゃない。嫌いじゃないと言えるのが、彼の強さだ。
「まず、周辺の測定を広げる。クルリ、区画の外周、二十メートル刻みで取って。数値は低くてもいい、形を見たい」
「はい、了解しました」
クルリはすぐ動いた。迷いがない。迷いがないから、現場が回る。
わたしとハイマはフェンス沿いに歩き、線の延長を追った。目地は複雑に分岐している。線はその一部にだけ乗っている。まるで誰かがここを選んだみたいに。
「選ぶ、か」
わたしが呟くと、ハイマが横目で見た。
「誰が」
「……わからない。でも自然現象って感じじゃない」
「自然現象でも選ぶときはある。水だって低いところ選ぶ」
「色は水じゃない」
「色も、溜まるって言っただろ」
わたしは言い返せなかった。溜まる。割れ目に溜まる。ひびに沿って残る。今朝の線は、まさにその言葉の通りに見える。
フェンスの向こうで、シートが風に鳴った。音だけが異様に大きい。色が少ない場所では、音も匂いも、輪郭が鋭くなる。わたしはその鋭さのせいで、思い出したくない感覚を思い出しそうになった。
――大学校の講義室。黒板に引かれた一本の線。
――「境界は、もっとも汚染が溜まる」
そんな言葉を、誰かが淡々と言っていた。
「どうした」
ハイマが訊いた。
「……なんでもない」
「ほんとに?」
「ほんと」
わたしは歩幅を少しだけ早めた。ハイマが追いつく。追いついてしまう距離で、わたしたちはいつも一緒に現場を見ている。
クルリの測定が終わり、彼女が戻ってきた。端末の画面をこちらに向ける。
「分隊長、外周の測定結果です。数値自体は低いのですが……その、分布が」
画面には点のプロットが並び、その点を結ぶように、薄い帯状の偏りが見える。線だ。線が、別の線を呼んでいる。
「……粘るな」
ハイマが言った。
クルリが一瞬だけ「粘る?」という顔をしたので、わたしが補足する。
「落ちにくい、って意味。前より、色が……粘る」
クルリはその言い方を反芻するように小さく頷いた。真面目な彼女が、現場言葉を覚えていく瞬間だ。そうやって現場の人間になっていく。現場の人間になっていくほど、見えるものが増える。見えるものが増えるほど、危険になる。
わたしは、端末の報告入力欄を開いた。文章にする。文章にした瞬間、現実は制度の中に回収される。回収しないと、ただの恐怖になる。
――防染済み現場において、同系色の線状残留を視認。
――数値は規定値内であるが、前回事案と位置が一致。
――外部再汚染の可能性は現時点で低い。
――周辺分布に帯状偏りを確認。追跡継続。
書き終えて、わたしは端末を閉じた。
「追加防染は、今日はやらない」
「理由は」
ハイマが淡々と訊く。責める声じゃない。確認だ。
「線の性質がわからない。消す行為が、線を太らせる可能性がある」
クルリが息を呑んだ音がした。彼女には突拍子もない判断に見えるだろう。けれど、現場は突拍子もないものが先に来る。
「監視と測定を優先する。封鎖は維持。通達はわたしから出す」
「了解しました」
クルリは敬語で返す。正しい上下関係の形だ。わたしはその正しさに少しだけ救われる。正しさがあるうちは、世界はまだ壊れていないと錯覚できる。
現場を離れる直前、わたしはもう一度振り返った。フェンス際の目地に、薄い淡黄の線が残っている。朝日が差し込み始め、線はさらに見えにくくなる。見えにくいのに、消えてはいない。
終わったはずの場所に、終わっていないものがある。
それは、再発という言葉で片づけるには静かすぎた。
ひび割れの入り方としては、あまりにも控えめで、あまりにも確実だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます