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デスクの周囲は、いつもと変わらない。キーボードの音。紙の擦れる音。誰かが咳払いをする。
日常だ。それが、余計に現実味を失わせる。クルリは、報告書の副添付を黙ってまとめていた。余計なことを聞かない。今はそれがありがたい。
端末が震えた。即座に来る。
そういう種類の報告だった。
「春野分隊長」
本省直結の番号。
「はい」
「今、時間は取れるか」
疑問形だが、疑問ではない。
「取れます」
「会議室Cに来てほしい。単独で」
単独。その一語で、空気が変わる。
「了解しました」
端末を切り、立ち上がる。
背中に、何本もの視線が突き刺さるのを感じるが、振り返らない。
会議室Cは普段使われない部屋だ。広くもなく、狭くもない。記録用のカメラは壁の内側に収納されている。
つまり、「公式」ではない話をする場所。
中には三人いた。管区本部から一人。本省から二人。
全員、座っている。わたしだけが立ったままになる構図だ。
「座っていい」
本省の一人が言う。
「ありがとうございます」
椅子に腰掛ける。
背もたれには寄りかからない。
「先ほどの報告書についてだ」
やはり、そこから来た。
「重大性評価にチェックが入っている」
「はい」
「理由は」
「現場で基準値超過を確認しました」
嘘は言わない。余計なことも言わない。
「基準値は、どの時点で」
「構造破壊直前です」
数秒、沈黙。
「それは、対応の結果ではないか」
管区本部の人間が言う。
「対応によって、数値が跳ね上がった可能性は?」
この問いは、よくできている。原因と結果を、反転させる。
「否定できません」
わたしはそう答えた。
否定できない。だが、肯定もしない。
「つまり、現場の判断が過剰だった可能性がある」
「可能性はあります」
本省の人間が、軽く頷く。
「ならば、今回の件は――」
「ただし」
わたしは言葉を挟んだ。
一瞬、空気が張る。
「対応前から、構造的な彩因固定を確認しています」
「記録は」
「非公式ログとして残しています」
非公式、という言葉が、彼らの表情をわずかに歪めた。
「公式でない記録は、判断材料にならない」
「承知しています」
「ならば――」
「ですが」
もう一度、遮る。
今度は、誰も咎めなかった。
「同様の兆候が、管区内で複数確認されています」
それは、賭けだった。彼らがどこまで把握しているか、分からない。
沈黙。
本省の一人が、隣の人間と視線を交わす。
「……君は、どこまで知っている」
「現場で見える範囲だけです」
それは事実だ。
「その範囲で、これは偶発ではないと判断しました」
再び沈黙。長い。さっきまでの沈黙とは、質が違う。
「分かった」
本省の人間が言った。
「今回の件は、こちらで引き取る」
引き取る。それは、現場から切り離すという意味だ。
「防染課は、これ以上関与しなくていい」
予想どおりの結論。
「今後、同様の事案が発生した場合も、現行の軽微処理基準に従え」
わたしは、少しだけ視線を下げた。
「了解しました」
言葉にすると、あっさりしている。
「それと」
管区本部の人間が続ける。
「今回の非公式ログについてだが――」
「破棄します」
即答だった。彼らが言う前に言った。
数秒、間が空く。
「……判断が早いな」
「規定外の記録は、保持できません」
それも、事実だ。
「よろしい」
会議は、それで終わった。
部屋を出た瞬間、肩の力が抜けた。抜けすぎて少しふらつく。廊下の壁に手をつき、呼吸を整える。
わたしは、今、何を守ったのか、何を手放したのか。はっきりしない。
デスクに戻ると、クルリがこちらを見た。
「……どうでした」
「終わった」
「終わった、というのは」
「この件は、わたしたちの仕事じゃなくなった」
彼女は、すぐに理解した。理解してしまうのが、早い。
「じゃあ……」
「軽微に戻る」
そう言うと、クルリは俯いた。
「でも……」
「それ以上は言わなくていい」
わたしは椅子に座り、端末を開く。非公式ログのフォルダを呼び出す。
線の記録、広場の配置、時間ごとの変化。
すべてが、そこにある。
わたしは削除操作を選択した。確認画面が出る。
本当に削除しますか?
わたしは指を止めた。そのとき、端末がもう一度震えた。
ハイマからの着信。
「今、いいか」
「……今」
通話をつなぐ。
「上と話したな」
「話した」
「どうなった」
「引き取られた」
短い沈黙。
「そうか」
彼は、それ以上驚かない。
「非公式ログは?」
「破棄することになった」
また、沈黙。今度は、少し長い。
「春野」
彼は、低い声で言った。
「それ、本当に全部か」
わたしは、端末の画面を見る。確認画面は、まだ消えていない。
「……現場判断としては」
「答えになってない」
鋭い。
「全部だ」
わたしはそう言った。
それがどこまで真実なのか、自分でも分からない。
「分かった」
ハイマは言う。
「なら、いい」
いい、という言葉が、やけに重かった。
「だが」
彼は続けた。
「これは、止まらない」
「分かってる」
「次に動くのは、現場じゃない」
「……誰だ」
「たぶん、もっと上だ」
もっと上。
本省よりも、さらに。
「だから、覚えておけ」
彼は、静かに言った。
「軽微に戻ったときが、一番危ない」
通話が切れる。
わたしは削除ボタンを押した。フォルダが消える。データが消える。
線は、記録からは消えた。だが、わたしの中からは消えない。
その日の終業時刻、街は相変わらず正しかった。
信号は守られ、色は抑えられ、人は静かに帰路につく。
何も起きていない。そう見える。
けれど、「何も起きていない」と処理された場所が、確実に増えている。
軽微は消えない。軽微は積み重なる。
そして、積み重なった先にあるものは、もう軽微ではない。それでも、今のところこの世界は――正しく動いている。
その正しさがいつまで保つのか、誰も口にしないだけで。
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