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 その夜の眠りは浅かった。夢を見たかどうかは覚えていない。ただ、目を閉じるたびに、広場の地面が浮かぶ。

 何も残っていないはずの場所。

 それでも、そこに線があったという感触だけが、消えない。

 

 朝になっても、その感触は残っていた。

 第一管区彩務部に向かう道は、いつもより混んでいた。人が多いわけではない。人の動きが、わずかに噛み合っていない。

 信号が変わる一瞬前に足を止める者。横断歩道の中央で、理由もなく歩調を落とす者。誰も違反はしていない。

 だが、流れが滑らかではない。色の問題ではない。少なくとも、表面上は。

 建物に入ると、空気が張りつめているのが分かった。防染課だけではない。フロア全体が、静かすぎる。デスクに着く前に、内線が鳴った。


「春野分隊長」


 管区本部からの呼び出しだ。会議室番号が告げられる。理由は言われない。理由を言わない呼び出しが、最近増えている。

 会議室には、見慣れない顔がいた。本省から来た人間だ。服装で分かる。現場を想定していない仕立て。

 彼らは、わたしを見ると席を勧めた。座る位置まで指定される。


「昨日の対応について、確認したい」


 確認、という言葉が使われた時点で、結論は決まっている。


「再開発地区外縁の事案だが」


「はい」


「報告が上がっていない」


「軽微処理で完結しました」


 嘘ではない。そう処理した。

 相手は、わたしの顔ではなく、端末を見ている。そこに表示されているのは、「何も起きなかった」という記録だけだ。


「判断の根拠は?」


「現場の彩度計測値が基準内でした」


「被害もなし」


「はい」


 しばらく沈黙が続く。この沈黙は、考えるためのものではない。圧をかけるための沈黙だ。


「最近、第一管区ではが多い」


 本省の人間が言う。


「それ自体は問題ではない。むしろ、安定している証拠だ」


 安定。それは、動かないことを意味する。


「だが、現場判断が過剰になっていないか」


「過剰、とは」


「必要以上に踏み込んでいないか、という意味だ」


 わたしは答えなかった。正確な答えが存在しないからだ。


「防染課は、後処理が任務だ」


 別の声が続く。


「未然に防ぐことを目的にしてはいけない」


 未然に防ぐ。それは、本来なら褒められる行為だ。

 しかし、この場では違う。


「現場での独自判断は、結果として責任の所在を曖昧にする」


 つまり、責任を取る気はない、ということだ。


「分かりました」


 わたしはそう答えた。分かっているかどうかは、問題ではない。従うかどうかだけが、問題だ。


「今後は、判断に迷う事案があれば必ず上にエスカレーションすること」


「はい」


「軽微で済むうちに、だ」


 会議は、それで終わった。


 部屋を出ると、廊下の空気が少しだけ緩んだ。

 だが、それは錯覚だ。

 圧は、形を変えただけで消えていない。

 デスクに戻ると、クルリがこちらを見た。


「……大丈夫ですか」


「問題ない」


 そう言いながら、端末を立ち上げる。

 未読通知。また、軽微違反。

 場所を見て、胸の奥が冷える。昨日の広場から、徒歩圏内。

 時間帯は、夕方。人が集まりやすい。

 わたしは立ち上がった。装備室へ向かう途中、クルリが追いつく。


「分隊長、今回は……」


「行く」


「上からは……」


「現場が判断する」


 それ以上は言わせない。装備室でグレインと短刀を取り、金属の感触を確かめる。これは、武器じゃない。判断を引き受けるための道具だ。

 

 現場に着いた瞬間分かった。昨日より進んでいる。線は、もう地面だけではなかった。ベンチの脚、遊具の支柱、自動販売機の側面。すべてに薄く、同じ方向性の彩因が走っている。

 立体だ。

 わたしは歯を食いしばる。ここまで来ると偶発ではあり得ない。誰かが「軽微」を越えさせようとしている。


「下がれ」


 クルリに命じ、前に出る。今回は、迷いがなかった。

 短刀を抜き、構造の中心を探す。線がわずかに収束している場所。そこに刃を突き立てる。前回より抵抗がある。色が逃げない。

 粘る。

 計測機が甲高い音を立てる。基準値超過。初めて、明確に越えた。


「……くそ」


 わたしは短刀を捻り、構造を壊す。無理やりだ。美しくはない。

 色が悲鳴のように散り、空気が大きく揺れる。数秒後、静寂。線は消えた。

 だが、今回は痕が残った。目に見えないが、確実にここに何かがあったという痕。

 クルリが近づいてくる。


「分隊長……今のは……」


「記録する」


 わたしは言った。


「今回は、する」


 彼女は目を見開いた。


「でも、それは……」


じゃない」


 そう言い切ると彼女は黙って頷いた。

 彩務部に戻る途中、端末が鳴る。

 ハイマだ。


「……越えたな」


「越えさせられた」


「記録するのか」


「する」


 短い沈黙。


「上は、嫌がるぞ」


「知ってる」


「それでも?」


「それでもだ」


 ハイマは、ゆっくり息を吐いた。


「なら、覚悟しろ」


 その言葉は、脅しではない。忠告だ。

 通話を切り、わたしは端末を見る。

 報告書の入力画面。項目の一つに、これまで使わなかったチェックがある。


「重大性評価 要検討」


 わたしは、そこにチェックを入れた。

 指が、少し震えた。これで戻れなくなる。でも、戻らないと決めたのはたぶんもっと前だ。最初に線を見たときから。世界はまだ壊れていない。だが、壊れないまま保たれる保証も、もうどこにもなかった。

 それでも、わたしは報告書を送信する。「軽微」の外側へ、一歩踏み出しながら。

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