8/
その夜の眠りは浅かった。夢を見たかどうかは覚えていない。ただ、目を閉じるたびに、広場の地面が浮かぶ。
何も残っていないはずの場所。
それでも、そこに線があったという感触だけが、消えない。
朝になっても、その感触は残っていた。
第一管区彩務部に向かう道は、いつもより混んでいた。人が多いわけではない。人の動きが、わずかに噛み合っていない。
信号が変わる一瞬前に足を止める者。横断歩道の中央で、理由もなく歩調を落とす者。誰も違反はしていない。
だが、流れが滑らかではない。色の問題ではない。少なくとも、表面上は。
建物に入ると、空気が張りつめているのが分かった。防染課だけではない。フロア全体が、静かすぎる。デスクに着く前に、内線が鳴った。
「春野分隊長」
管区本部からの呼び出しだ。会議室番号が告げられる。理由は言われない。理由を言わない呼び出しが、最近増えている。
会議室には、見慣れない顔がいた。本省から来た人間だ。服装で分かる。現場を想定していない仕立て。
彼らは、わたしを見ると席を勧めた。座る位置まで指定される。
「昨日の対応について、確認したい」
確認、という言葉が使われた時点で、結論は決まっている。
「再開発地区外縁の事案だが」
「はい」
「報告が上がっていない」
「軽微処理で完結しました」
嘘ではない。そう処理した。
相手は、わたしの顔ではなく、端末を見ている。そこに表示されているのは、「何も起きなかった」という記録だけだ。
「判断の根拠は?」
「現場の彩度計測値が基準内でした」
「被害もなし」
「はい」
しばらく沈黙が続く。この沈黙は、考えるためのものではない。圧をかけるための沈黙だ。
「最近、第一管区では軽微が多い」
本省の人間が言う。
「それ自体は問題ではない。むしろ、安定している証拠だ」
安定。それは、動かないことを意味する。
「だが、現場判断が過剰になっていないか」
「過剰、とは」
「必要以上に踏み込んでいないか、という意味だ」
わたしは答えなかった。正確な答えが存在しないからだ。
「防染課は、後処理が任務だ」
別の声が続く。
「未然に防ぐことを目的にしてはいけない」
未然に防ぐ。それは、本来なら褒められる行為だ。
しかし、この場では違う。
「現場での独自判断は、結果として責任の所在を曖昧にする」
つまり、責任を取る気はない、ということだ。
「分かりました」
わたしはそう答えた。分かっているかどうかは、問題ではない。従うかどうかだけが、問題だ。
「今後は、判断に迷う事案があれば必ず上にエスカレーションすること」
「はい」
「軽微で済むうちに、だ」
会議は、それで終わった。
部屋を出ると、廊下の空気が少しだけ緩んだ。
だが、それは錯覚だ。
圧は、形を変えただけで消えていない。
デスクに戻ると、クルリがこちらを見た。
「……大丈夫ですか」
「問題ない」
そう言いながら、端末を立ち上げる。
未読通知。また、軽微違反。
場所を見て、胸の奥が冷える。昨日の広場から、徒歩圏内。
時間帯は、夕方。人が集まりやすい。
わたしは立ち上がった。装備室へ向かう途中、クルリが追いつく。
「分隊長、今回は……」
「行く」
「上からは……」
「現場が判断する」
それ以上は言わせない。装備室でグレインと短刀を取り、金属の感触を確かめる。これは、武器じゃない。判断を引き受けるための道具だ。
現場に着いた瞬間分かった。昨日より進んでいる。線は、もう地面だけではなかった。ベンチの脚、遊具の支柱、自動販売機の側面。すべてに薄く、同じ方向性の彩因が走っている。
立体だ。
わたしは歯を食いしばる。ここまで来ると偶発ではあり得ない。誰かが「軽微」を越えさせようとしている。
「下がれ」
クルリに命じ、前に出る。今回は、迷いがなかった。
短刀を抜き、構造の中心を探す。線がわずかに収束している場所。そこに刃を突き立てる。前回より抵抗がある。色が逃げない。
粘る。
計測機が甲高い音を立てる。基準値超過。初めて、明確に越えた。
「……くそ」
わたしは短刀を捻り、構造を壊す。無理やりだ。美しくはない。
色が悲鳴のように散り、空気が大きく揺れる。数秒後、静寂。線は消えた。
だが、今回は痕が残った。目に見えないが、確実にここに何かがあったという痕。
クルリが近づいてくる。
「分隊長……今のは……」
「記録する」
わたしは言った。
「今回は、する」
彼女は目を見開いた。
「でも、それは……」
「軽微じゃない」
そう言い切ると彼女は黙って頷いた。
彩務部に戻る途中、端末が鳴る。
ハイマだ。
「……越えたな」
「越えさせられた」
「記録するのか」
「する」
短い沈黙。
「上は、嫌がるぞ」
「知ってる」
「それでも?」
「それでもだ」
ハイマは、ゆっくり息を吐いた。
「なら、覚悟しろ」
その言葉は、脅しではない。忠告だ。
通話を切り、わたしは端末を見る。
報告書の入力画面。項目の一つに、これまで使わなかったチェックがある。
「重大性評価 要検討」
わたしは、そこにチェックを入れた。
指が、少し震えた。これで戻れなくなる。でも、戻らないと決めたのはたぶんもっと前だ。最初に線を見たときから。世界はまだ壊れていない。だが、壊れないまま保たれる保証も、もうどこにもなかった。
それでも、わたしは報告書を送信する。「軽微」の外側へ、一歩踏み出しながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます