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それは、一覧に並んだ案件の中では他と何も変わらなかった。
未許可彩度物品の集団携行。短時間。被害報告なし。基準値以下。
分類は、いつもどおり「軽微」だ。
ただ、位置情報だけが引っかかった。第一管区の中心から、わずかに外れている。再開発区域でも、管理が行き届いていない場所でもない。生活圏のど真ん中だ。
わたしは端末を閉じ、立ち上がった。
理由を言語化する前に、身体が判断していた。
装備室でグレインと16式戦術短刀を受け取る。金属の重みが、今日はいつもより現実的だった。
クルリが何も言わずに同行する。彼女も、一覧の違和感に気づいている。
現場は、小さな広場だった。
児童向けの遊具、ベンチ、自動販売機。
昼間なら人がいる。
今は誰もいない。色だけが残っている。
赤、青、黄。
それも、服や小物ではない。地面だ。舗装された床に細い線が引かれている。塗料ではない。削られた痕跡でもない。色が、染み込んでいる。
わたしは足を止めた。
この時点で、もう「軽微」ではない。彩因は、物品や人体から発生するのが通常だ。地面に直接、固定されることはない。固定された彩因は、環境と結びつく。環境と結びついた彩因は、人の意思から離れる。
それは、彩獣発生の前段階だ。
計測機が、短く、断続的に振動している。警告音は鳴らない。数値は、まだ基準内だ。基準内で、ここまで来ている。
「……分隊長」
クルリの声が、少しだけ震えた。
「下がれ」
わたしは即座に言った。
「ここから先は、わたしが行く」
「でも――」
「命令だ」
彼女は唇を噛み、数歩後退する。視線は地面の線から離れない。
線は、広場の中央から放射状に伸びている。一本一本は細い。
だが、交差点のように絡み合っている。誰かが、ここを「場」として使った。色を溜めるために。
わたしはグレインを抜いた。撃つためではない。引き金に指をかけることで、自分の身体を現実に繋ぎ止める。
16式短刀は、まだ抜かない。刃は最後だ。
一歩、前に出る。その瞬間、空気が変わった。
音が、遅れる。遠くの車の走行音が、妙に伸びる。視界の端が、歪む。彩因が、動いている。線が、わずかに明るくなる。
自己増幅だ。
わたしは息を吸い、吐く。
これは事故ではない。悪戯でもない。集団の暴走ですらない。設計だ。
誰かが意図的に「軽微」の範囲内で、限界まで色を積み上げている。
わたしは短刀を抜いた。
刃を地面に突き立てる。物理的な意味はない。だが、構造を壊すには十分だ。
刃を中心に線が乱れる。放射状だった配置が、歪み、絡まり、意味を失う。計測機が初めて警告音を発した。
遅い。
線の一部が、盛り上がる。立体になる。色が厚みを持つ。
わたしは短刀を引き抜き、切り払った。色が弾ける。
破裂音はない。ただ、空気が一瞬空白になる。
次の瞬間、すべてが元に戻った。線は消え、地面はただの舗装に戻る。彩因の残留は急速に減衰している。
計測値は、基準内。
――間に合った。
わたしは、膝に手をついて呼吸を整えた。心拍がまだ速い。
クルリが駆け寄ってくる。
「分隊長……今の……」
「記録するな」
即座に言う。
「公式には、未確認事案だ」
「でも、あれは……」
「あれは、起きなかった」
そう言い切ると、彼女は黙った。理解していないわけではない。理解しすぎている。
防染作業を終え、現場を離れる。広場には、何も残らない。誰かが見ていれば、
「何もなかった」
と言うだろう。
彩務部に戻る途中、端末が震えた。ハイマだ。
「今、どこだ」
「現場帰り」
「……一線、越えたな」
声が、いつもより低い。
「向こうがな」
短い沈黙。
「記録は?」
「残していない」
「判断としては正しい」
その言葉が、重かった。
「だが、次はそうはいかない」
「分かってる」
分かっている。
だから、ここにいる。
「これはもう、軽微じゃない」
ハイマは、はっきり言った。
「実験だ」
その言葉が、胸に落ちる。
「反応を見るための」
「誰の」
「それが分からない」
だが、分からないままでも十分だった。
街を、制度を、調査官を。全部含めて、試している。
「春野」
ハイマが、わたしの名前を呼ぶ。
「上は、これを認めない」
「知ってる」
「だから――」
「だから、現場が止める」
わたしはそう言った。言ってしまった。
電話の向こうで、彼が息を吐く。
「戻れ。今日はもう出るな」
「了解」
通話を切り、車窓の外を見る。いつもの街、いつもの色。
だが、わたしはもう知っている。
「軽微」の内側に、確実に境界線が引かれていることを。
そして、その線は誰かの手によって、少しずつ、少しずつ、太くなっている。
次は間に合うとは限らない。
それでも、わたしは現場に立つ。それが、イロドリ調査官だからだ。
――この世界が、まだ壊れていないことに、意味があるうちに。
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