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 あたしは、拾い物をするのが得意だ。正確に言うと、落ちているものに気づいてしまう。

 気づいてしまうから、拾うかどうかを選ばされる。そして大抵の場合、拾わないほうが正しい。

 イロドリ調査官として働き始めてから、それは何度も教えられた。現場に残っているものは、すでに「処理されなかった残り」だ。処理されなかったということは、処理する必要がなかったということだ。必要がないものに関心を向けるのは、仕事ができない人間のやることだ。

 分かっている。

 分かっている、はずだった。

 第一管区彩務部防染課の朝は、いつも同じ匂いがする。消毒薬と、わずかに焦げた電子部品の匂い。色は抑えられているのに、匂いだけは規定に入りきらない。

 あたしはデスクに座り、端末を立ち上げた。

 昨日の事故の報告書が、すでに「完了」になっている。

 完了。

 それ以上、何も書き足す必要はない。

 春野分隊長は、まだ来ていなかった。

 あの人は、いつも静かだ。怒鳴らないし、褒めないし、無駄な感情を見せない。なのに、背中を見ると姿勢を正したくなる。

 あたしは、あの人のことを「できる人」だと思っている。同時に、「大丈夫なのかな」とも思っている。

 昨日の現場で、あたしは一瞬だけ、視界の端に変なものを見た。

 色、というほど派手なものじゃない。むしろ、色が「並びすぎている」感じ。

 点じゃない。線だった。

 あたしは、その瞬間、計測機を見た。数値は正常。基準値以下。

 だから、声には出さなかった。声に出さなければ、存在しなかったことになる。それも、仕事のうちだ。

 でも、ログは残る。あたしは端末を操作し、昨日の現場データを呼び出した。権限は最低限しかない。それでも、防染作業員として見られる範囲はある。

 拡大。角度変更。時間軸をずらす。

 ――やっぱり、ある。

 線。

 細くて、頼りなくて、でも意図的。

 あたしは息を止めた。

 こういうとき、どうするのが正解なのかは、教わっていない。教わっていないことは、しない。それが原則だ。原則を破るとき、人は「個人」になる。

 イロドリ調査官は、個人になってはいけない。

 それでも、あたしはログを保存した。正式な報告ルートではない。個人メモとして、端末の奥に。

 拾ってしまった。その事実が、じわじわと胸に広がる。

 昼前、分隊長が来た。

 いつもと同じ顔。いつもと同じ歩き方。何も変わっていないように見える。

 でも、あたしには分かった。あの人、もう知ってる。

 理由は説明できない。ただ、空気が違った。

 分隊長はあたしのデスクの前で足を止めた。


「昨日の報告書、確認した」


「はい」


 あたしは背筋を伸ばす。


「問題なしだな」


「……はい」


 一瞬だけ、間が空いた。分隊長の視線が、あたしの端末に落ちる。

 あたしは、その視線を追いかけない。追いかけたら、拾ったことが伝わってしまう。


「反田」


「はい」


「余計なことは、しなくていい」


 その言葉は、注意でも叱責でもなかった。

 忠告に近い。


「はい」


 それで会話は終わった。

 分隊長は、あたしが拾ったことに気づいている。

 でも、今は拾わなかったことにしてくれている。それが、あの人なりの優しさなのか、それとも、仕事としての判断なのか、

 あたしには分からない。

 午後、管区本部から人が来た。現場確認ではない。

 形式的なヒアリングだ。

 形式的、という言葉は便利だ。中身が空っぽでも、正しい顔ができる。

 質問は決まっている。異常はなかったか。規定外の事象はなかったか。心理的負荷はなかったか。

 あたしは、全部「いいえ」と答えた。嘘ではない。規定外ではなかった。基準値以下だった。

 ヒアリングが終わったあと、あたしはトイレに入った。

 個室に鍵をかけて、しばらく動けなかった。鏡に映る自分の顔は、少し青白い。でも、それも基準内だ。

 あたしは、手を洗いながら思う。

 この仕事は、色を拾う仕事だ。でも同時に、拾わない仕事でもある。拾ってはいけない色がある。拾ってしまったら、戻れない色がある。

 分隊長は、そのことを知っている。

 たぶん、最初から。だから、あの人はあんなに静かなんだ。

 あたしは、自分の端末の奥にしまったログのことを思い出す。

 消そうと思えば、消せる。誰にも知られずに。それが正しい。正しいはずだ。

 でも、消したら、あたしは何を守ったことになるんだろう。

 規定か。

 秩序か。

 それとも、自分自身か。

 答えは出ない。ただ一つ分かるのは、あの線は、あたしの中に残ってしまったということだ。

 色は、回収できる。

 でも、一度見たものは、回収できない。あたしは、今日も拾ってはいけないものを抱えたまま、防染課の一日を終える。

 世界は、まだ壊れていない。少なくとも、そう報告されている。

 でも、壊れ始める前って、たぶん、こういう感じなんだと思う。静かで、正しくて、誰も大きな声を出さない。

 だからこそ、小さな線が、よく見える。

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