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記録室に向かう。光が抑えられ、音がさらに減衰し、人間の存在が希薄になる。記録室は、人のために作られた場所ではない。
わたしは入室認証を済ませ、通路を進んだ。
時間は始業前だが、ここは二十四時間稼働している。彩務部において「過去」は常に現在形だ。壁一面に並ぶ収納ユニットには、無数の事案データが保存されている。
彩因事故、彩因犯罪、彩獣発生、未分類。
それらは数値と波形に還元され、整然と眠っている。
ハイマは、すでに端末の前にいた。白衣ではない。彩務部指定の簡易防護服だ。研究者というより現場の人間に近い格好をしている。
彼はわたしを見ると、短くうなずいた。
「来たな」
「約束した」
「助かる」
それ以上の挨拶はない。
わたしたちは横に並び、端末の表示を見る。
「これが昨日の事故のログだ」
ハイマが操作すると、空間に立体投影が展開された。
彩因分布の可視化データ。色は抑えられているが、情報量は多い。
通常、彩因は環境中に均等に散る。人為的な操作がなければ、自然現象としてのノイズは点状に現れ、時間とともに薄れる。
だが、画面に浮かんでいるものは違った。
線だった。
細く、途切れ途切れで、それでも明確に「意図」を感じさせる形。
誰かが、空間に向かって筆を引いたみたいな線。
「これが不自然だと言った理由だ」
ハイマの声は落ち着いている。
だが、彼がこの状態で話すとき、感情がないわけではない。感情を、後回しにしているだけだ。
「自然現象じゃない」
「断定はしない」
「可能性の話だ」
ハイマは少しだけこちらを見る。
「断定は、現場調査官の仕事だろ」
わたしは返事をしなかった。代わりに、データに視線を戻す。線は、確かに存在している。
昨日、わたしが「何もない」と判断した現場に。
——彩因不正操作犯罪。
正式名称は、彩因不正操作犯罪。通称、イロドリ犯罪。
彩因とは、この世界に遍在する色彩エネルギーであり、情報でもある。
人の感情、集団の無意識、環境の履歴。
それらが混ざり合って生じる、極めて扱いづらい概念だ。
本来、彩因は自然に発生し、自然に消える。それを意図的に増幅・偏向・固定する行為は、公共危険罪に準じるとされている。なぜなら、彩因の操作は、彩獣発生と地続きだからだ。
彩獣とは、彩因が過剰に凝集した結果、生じる異常存在。人間の感情や記憶を媒介にして現れるため、予測も制御も難しい。
だからこそ、この国では「色」は管理されている。管理されなければならない。
わたしは線の起点を拡大表示した。
「ここから始まっている」
「そうだ」
「事故地点じゃない」
「その通り」
起点は、歩道の端。
人が立ち止まるには中途半端な位置だ。
「終点は?」
「まだ追えていない」
ハイマは画面を切り替え、別のログを表示した。
「似たパターンが、過去にもある」
「いつ」
「数年前。別の管区だ」
別の管区。
第一管区ではない。
それだけで、この件が厄介だと分かる。
管区をまたぐ事案は、政治的になる。
「処理は?」
「軽微事故として処理された」
わたしは目を伏せた。
基準値以下。
異常なし。
どこかで見た判断だ。
「共通点は?」
「規模が小さい。被害がない。派手じゃない」
「……目立たない」
「そう」
ハイマは言葉を切った。
「だから拾われなかった」
記録室の空気が、さらに冷えた気がした。もちろん、実際に温度が下がったわけではない。
わたしは、自分が何を感じているのか分からなかった。怒りでも、不安でもない。
ただ、輪郭が揺らいでいる。
「これをどうする」
わたしは聞いた。判断を委ねる問い方ではない。
ハイマは即答しなかった。その沈黙の間に、端末が小さく振動した。
着信。内線だ。
「春野分隊長」
防染課の事務担当の声。
「何」
「会議室Aに来てください。至急です」
理由は言われなかった。
理由を言わない呼び出しは、良くない。
「分かった」
通話を切り、ハイマを見る。
「上だな」
「だろうな」
彼は苦笑に近い表情を浮かべた。
「線を見たこと、後悔してるか」
「してない」
即答だった。
自分でも意外なくらい、迷いがなかった。
「ならいい」
ハイマは端末を閉じる。
「俺は研究職だ。踏み込める線には限界がある」
「分かってる」
「だから、現場の判断はお前に任せる」
任せる。
その言葉は、重い。
会議室Aには、防染課の上席と、管区本部の人間が揃っていた。
全員、落ち着いた顔をしている。
つまり、すでに結論は出ている。
「昨日の事故についてだが」
上席が言う。
「現状どおり、軽微事案として処理を完了する」
わたしは頷いた。反射的に。
「追加調査は行わない」
当然だ。
「管区をまたぐ可能性がある話は、現時点では不要な混乱を招く」
正しい。
「以上だ」
会議はそれで終わった。開始から三分も経っていない。
部屋を出たあと、わたしは廊下に立ち尽くした。
規定どおり。正しい判断。
それでも、あの線が頭から離れない。線は、誰かが引いたものだ。意図を持って。
わたしは歩き出した。
記録室へ戻るわけでも、デスクへ向かうわけでもない。ただ、制服の重みを確かめながら。
——関心を持たない方が楽だ。
その言葉が、今日はやけに薄っぺらく聞こえた。
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