第8話 公開挙手
「みなさん! 食事中に大変申し訳ありません! 少しだけ、お時間をください!」
私の声は、静まり返った店内に予想以上によく響いた。 義父は目を丸くし、口をパクパクさせている。
「な、なにを……おい美咲、座れ! 恥ずかしいだろ!」
「恥ずかしい?」
私は義父の方を向き、冷ややかに笑った。
「そうですね。恥ずかしいです。あなたが親族であることが、死ぬほど恥ずかしい」
「なっ……!」
私は義父の怒声を無視し、再び客席全体に向き直った。 百近い視線が私に集まっている。好奇心、困惑、そして微かな期待。
「あそこに座っている私の義父は、出てきたステーキが写真と少し違うというだけで、店長さんに土下座を強要しようとしています」
ざわっ、と店内の空気が動く。 私は言葉を続けた。
「私は、これは間違っていると思います。お店の人にも人権があります。客だからといって、何をしてもいいわけじゃありません。でも、この人は私の言葉を聞きません。『自分がルールだ』と思い込んでいるからです」
私は一度言葉を切り、深く息を吸った。
隣の席のカップル、奥の家族連れ、ビールを飲んでいたサラリーマンたち。 一人一人の顔を見るように視線を巡らせる。
「だから、みなさんに問わせてください」
私は右手を、天井に向かって突き上げた。
「今のこの義父の振る舞いを『不快だ』と思う方。義父が『間違っている』と思う方。……いらっしゃいましたら、私と一緒に手を挙げてください!」
シン、と一瞬の静寂が落ちた。 義父が鼻で笑う音が聞こえた。
「はっ、バカかお前は。赤の他人がそんなことするわけ……」
その時だ。
「……うるさくて迷惑だと思ってたんだよ」
低い声と共に、少し離れた席にいた強面の男性が、スッと手を挙げた。 それを皮切りに、空気が決壊した。
「私も、ずっと思ってました。店員さん可哀想すぎます」
隣の席の若い女性が、力強く手を挙げる。
「ああいう大人がいるから、日本がダメになるんだよな」
大学生風の集団が、一斉に手を挙げる。
「パパも挙げるよ。あんなことしちゃダメだからな」 「はーい!」
親子連れが、小さな手と大きな手を並べて挙げる。
一人、また一人。 まるでオセロの黒が一気に白に変わるように、店中のあちこちで手が挙がっていく。
十、二十、五十……いや、ほぼ全員だ。
厨房の入り口では、他の店員さんたちが涙ぐみながら、小さく手を挙げているのが見えた。 それは、圧巻の光景だった。 無数の手が、義父という「悪」を無言で断罪していた。
「な、な……」
義父の顔から、みるみる色が失われていく。 彼は信じられないものを見る目で、周囲を見回した。
どこを見ても、自分を肯定する人間はいない。全員が、冷ややかな、あるいは軽蔑の眼差しで自分を見ている。
「なんだ、お前ら……。俺は客だぞ……金払ってるんだぞ……」
義父の声が震えている。
いつもなら「誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ」と怒鳴り散らす場面だ。しかし、この圧倒的な「民意」の前では、その虚勢もあまりに無力だった。 彼は今まで、狭い家庭や、抵抗できない店員という「密室」の中でしか王様になれなかったのだ。 こうして衆人環視の中で「NO」を突きつけられれば、ただの哀れな老人に過ぎない。
私はゆっくりと腕を下ろし、呆然と立ち尽くす義父に告げた。
「見ましたか、お義父さん。これが世間の答えです」
「ぐ、う……」
「あなたの言う『昭和の常識』なんて、ここにはもう存在しないんです。あなたはただの、迷惑なクレーマーなんです」
義父はドサリと椅子に座り込んだ。 顔は真っ赤になったり青くなったりを繰り返し、言葉にならない唸り声を上げている。完全な敗北だった。
私は勝ち誇るでもなく、淡々とその様を見つめた。 そして、視線をゆっくりと横へ移す。
そこには、石のように固まったままの夫・誠がいた。
彼は口を半開きにして、震える父親と、毅然と立つ私、そして周囲の無数の手を交互に見ていた。 その瞳には、かつてないほどの衝撃が走っていた。
絶対的な恐怖の対象だった父親が、大勢の他人によって否定され、小さく縮こまっている。 その光景は、誠の中にあった「父=神」という呪縛に、決定的な亀裂を入れたようだった。
私は誠の前に歩み寄り、彼の手を強く握った。 彼の手は氷のように冷たかったが、握り返す力は残っていた。
「誠」
私は彼の目を見て、静かに言った。
「さあ、次はあなたの番よ」
舞台は整った。 最強の敵は弱体化した。 あとは、この男が自分の足で立つだけだ。
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