第7話 決定的瞬間


「詐欺だ! これは詐欺だぞ!」


 義父のダミ声が、焼き肉店の高い天井に反響した。  店内のBGMすらも搔き消すその怒号に、もはや誰も食事など喉を通らない状況だった。


「お客様、こちらは規定のグラム数でご提供しておりまして……焼くとどうしても縮んでしまうため、写真とは多少異なって見える場合が……」


 店長が額に汗を浮かべながら必死に説明する。しかし、そんな正論が通じる相手ではない。


「言い訳すんじゃねぇ!」


 義父は箸で皿の上の肉を突き刺し、放り投げんばかりの勢いで詰め寄った。


「俺はな、この写真の『感動的な大きさ』に金を払おうとしたんだ。なのに出てきたのはこれだ。貧相な肉片だ! 客を騙して平気なのかこの店は!」


 理不尽極まりない。  誰がどう見ても、その肉は十分に立派なサイズだった。ただ、義父の歪んだ期待値に届かなかっただけだ。


「誠! お前もそう思うだろ! 言ってやれ!」


 突然、矛先が夫に向けられた。  誠の体がビクッと跳ね上がる。彼の顔面は蒼白で、唇はカサカサに乾いていた。


 私はテーブルの下で、誠の太腿を強くつねった。


(言って。今よ。今言わなきゃ、本当に終わる)


 誠は私の視線と、義父の視線の板挟みになり、過呼吸になりそうなほど肩を上下させた。  そして、蚊の鳴くような声で絞り出した。


「と、父さん……もう、いいじゃないか。お店の人も困ってるし……」


 言った。  小さいけれど、確かに止めた。


 だが、その勇気は一瞬で粉砕された。


「ああん!?」


 義父が鬼の形相で誠を睨みつけた。


「お前、親父より他人を庇うのか? 俺が間違ってるって言うのか! ええ!?」


 怒号一閃。  誠の瞳から光が消えた。


 幼少期から何千回と繰り返された「支配の儀式」。パブロフの犬のように、彼は首をすくめ、視線を落とした。


「……ご、ごめんなさい」


 終わった。


 私の夫は、三十歳になっても、この怪物の呪縛から逃れられなかった。  妻である私を守ることも、正義を貫くこともできなかった。


「はんっ。情けねぇ奴だ」


 義父は鼻で笑うと、再び店長に向き直った。その目は、獲物をいたぶる猛獣のそれだった。


「おい店長。口先だけの謝罪はいらねぇんだよ」


 義父はドカリと椅子に座り直し、床を指差した。


「誠意を見せろって言ってんだ。分かるよな? 客の心を傷つけたんだ。それ相応の態度ってものがあるだろ」


 店長が息を呑む。  土下座。  言葉には出さないが、明らかにそれを要求している。


 周囲の客席からは「警察呼んだ方がいいんじゃない?」「動画撮る?」といった囁き声が聞こえるが、誰も動かない。関わりたくないのだ。この狂った老人と。


 店長が震える膝を折ろうとした、その時。


 ――プツン。


 私の中で、何かが焼き切れる音がした。  堪忍袋の緒ではない。  「常識ある大人としての自制心」という名の安全装置が、弾け飛んだのだ。


(ああ、もういい)


 私はスッと立ち上がった。  あまりに自然な動作だったので、義父も、誠も、店長も、一瞬私が何をする気なのか分からなかったようだ。


「……美咲?」


 誠が呆けたように私の名を呼ぶ。  私は誠を一瞥もしなかった。もう彼に用はない。


 私はテーブルの上のコップの水を一気に飲み干すと、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。  そして、腹の底から声を張り上げた。


「いい加減にしろ!!!」


 雷が落ちたような声だった。  店内の空気がビリビリと震えた。


 義父が「あ?」と間抜けな顔でこちらを見る。  私は義父を真っ直ぐに見下ろし、冷徹な声で告げた。


「お義父さん。あなたは今、強要罪という立派な犯罪を犯そうとしています。恥ずかしくないんですか? 六十過ぎて、こんなお店で、弱い者いじめをして」


「な、なんだと美咲! 誰に向かって口を……」


「黙りなさい」


 私は義父の言葉を遮った。  もう敬語も、媚びも、愛想笑いも必要ない。


 私はくるりと踵を返し、店内を見渡した。  百人はいるであろう客たち。彼らの視線が私に集中している。


 恐怖はない。あるのは、この理不尽を終わらせるという使命感だけだ。  私は右手を高く突き上げた。


「みなさん! 食事中に大変申し訳ありません! 少しだけ、お時間をください!」


 私の行動に、義父は目を白黒させている。  何が始まるのか。


 ここからが、私の――私たちの反撃だ。

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