第6話 地獄の食事会②:前兆


 日曜日、午後六時。  都内の人気焼肉店は、家族連れやカップルで満席だった。


 店内に充満する肉の焼ける音、笑い声、グラスが触れ合う音。  そんな幸せなノイズの中に、私たち三人はいた。


「なんだこの店は! 注文もできねぇのか!」


 席に着いて早々、義父のダミ声が炸裂した。  原因はテーブルに置かれたタブレット端末だ。


「申し訳ございません。当店はタッチパネルでのご注文をお願いしておりまして……」


 アルバイトの女性店員が恐縮しながら説明するが、義父は聞く耳を持たない。


「字が小さくて読めねぇんだよ! だいたい、客に機械操作させるなんて怠慢だろ! 口頭で注文聞いてくりゃいいじゃねぇか!」


「は、はい……システム上……」


「システムだぁ? そんなもん知るか! 俺はカルビとロースとビールだ! 覚えろ!」


 義父はメニュー表を放り投げた。  店員さんは困惑の表情で私を見る。


 私は小さく頷き、「すみません、私が入力しますから」と口パクで伝えた。  店員さんは安堵と疲労が入り混じった顔で頭を下げ、去っていった。


「まったく、最近の店はなっちゃいねぇ。サービスってのは心だろ、心」


 義父はふんぞり返り、おしぼりで顔を拭きながら毒づく。  その横顔には、自分の振る舞いが「正しい教育」であるという揺るぎない確信が張り付いている。  自分が周囲の空気を凍らせていることに、一ミリも気づいていないのだ。


 私はチラリと隣を見た。


 夫の誠は、膝の上で拳を握りしめ、じっと網を見つめている。  顔色は悪い。額には脂汗が滲んでいる。


 先日の私の「最後通告」が効いているのか、それとも幼少期のトラウマが蘇っているのか。彼は何か言いたげに唇を震わせているが、声にはならない。


(……まだ、動けないか)


 私は心の中で冷たく分析した。  期待はしていない。でも、最後のチャンスは与える。  もしこの後、義父が決定的な行動に出た時、誠が動かなければ――私が動く。


 注文した肉が運ばれてきた。  特上カルビ、厚切りタン塩。見た目は素晴らしい。本来なら垂涎もののディナーだ。


 しかし、義父の口は止まらない。


「おい、タレの皿が小さいぞ。もっとでかいの持ってこい」


「網交換だ。まだ焼いてないけど気分転換だ」


「ビールがぬるい気がするな。店長呼べ」


 細かいクレームの連打。  店員たちが席に来るたび、その表情が強張っていくのが分かる。


 そして、周囲の客たちの視線も、徐々に厳しさを増していた。


 隣の席の若いカップルは、あからさまに嫌な顔をして会話を止めている。  後ろの席の家族連れは、父親が子供に「ああいう人になっちゃダメだよ」と小声で囁いているのが聞こえた。


 店内の空気が、可燃性のガスで充満していくようだ。  あと一つ。  何か一つ、火花が散れば、大爆発が起きる。


 私は静かに、店内を見渡した。


 満席の客。走り回る店員。  彼らは全員、義父に対して「不快」を感じている。  今はまだ、それぞれが個別に我慢しているだけだ。


 でも、もし誰かが「我慢しなくていい」と声を上げたら?  もし、「あいつは間違っている」という旗を掲げたら?


(……勝てる)


 私は確信した。  義父は「客という立場」を盾に取って無敵だと思い込んでいるが、それは幻想だ。  ここでは「数」こそが正義になり得る。


「おい、こっちはまだか!」


 義父がまた叫んだ。  最後の一皿、メインディッシュの『極厚ハラミステーキ』がまだ来ていないのだ。


「お待たせいたしましたー」


 店長らしき男性が、大皿を持って小走りでやってきた。  その皿がテーブルに置かれた瞬間。


 ピタリ、と義父の動きが止まった。


 時が止まったような静寂。  義父は皿の上の肉と、メニューの写真を交互に見比べた。  そして、顔を真っ赤にして立ち上がった。


「おい……店長」


 ドスの効いた低い声。  誠がビクリと震え上がった。


「なんだこれは」


「は、ハラミステーキでございますが……」


「写真と大きさが全然違うじゃねぇか!!」


 ドンッ!!


 義父がテーブルを激しく叩き、ジョッキのビールが波打った。  店内の視線が、一斉に私たちに突き刺さる。


 来た。  着火した。


 私はテーブルの下で、スカートの布地をギュッと握りしめた。  さあ、誠。どうする?  これが最後の審判の時よ。

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