曖昧なままのカウンター

朝凪 つばき

第1話

 日曜の午前十一時、Café Blancカフェ・ブランは、まだ新しい匂いがする。棚の角も、白い天板も、手入れの跡がそのまま残っていて、触れれば指先に「開店したばかり」が伝わってくる。


 私はエプロンの紐を結び直しながら、レジ横のガラスに映る自分の髪を整えた。まとめきれずに残った毛先が首に触れて、落ち着かない。手早く耳にかけて、口角だけ整える。こういうところが、ちゃんとしているようで、まだ


 この店で働き始めて、まだひと月も経っていない。店自体も開店して間もなく、日曜の午後は忙しいのか暇なのか読みづらい。講義もない日に駅前で立っていると、友達のSNSに流れてくる「昼からカフェ」みたいな時間とは別の場所にいる気がして、足場が少しだけ浮く。


 テラス席には白いテーブルが並び、日差しが斜めに落ちていた。冷たい空気を押し出すように、暖かい風が通り抜ける。薄手のカーディガンは着ていたけれど、ボタンを留める気になれなくて、前を開けたままでいた。

 

 カウンターの内側で、店長が豆の袋を整えている。四十代くらいの男性で、動きは静かだ。必要なことしか言わないのに、困ることもない。そういう“ちゃんとした大人”がいる場所に、自分が仮置きされている感じがする。


 レジに立ち、ふと、テラス席を覗くと、白い影がいた。

 白いネコだ。


 初めて見たわけではない。気づくといつもいる。だけど「いつから?」と毎回思う。いない日もあったはずなのに、いない日を思い出せない。店の外の景色の一部みたいで、いても不自然じゃないのが、逆に落ち着かなかった。

 

 店長が、一度だけテラス席のほうを見た。ネコを確認しているみたいで、でも何も言わない。


 仕事的には、少し気になる。

 だから、迷ってから聞いた。


 「あの……ネコ、今日もいますけど……」


 店長はすぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ、テラス席とネコを見て、それからこっちを見る。

 

 「ああ、あれ? まあ……追い払うほどでもないかなって。白いテラス席に、白いネコでしょ」


 軽く笑って言う。


 「店の名前も Café Blanc(白いカフェ)だし、むしろ居たほうがいいんじゃない?」


 冗談みたいな口調だった。本気とも冗談とも取れる。

 追い払う気はないんだ、とそのときは思った。なのに、私もテラス席を見てしまう。

 白い机、白いネコ、白い光。

 

 ……確かに、相性はいい気がした。

 そう思ってしまった自分が、少し悔しくて、私はレジの画面に視線を戻した。


 十一時半を過ぎて、注文がぽつぽつ入る。テイクアウトの人、近所の人、駅のほうから流れてきた人。ピークと呼ぶほどじゃないけれど、手は止まらない。


 正午すぎ、ふとテラス席を見たら、白い影が消えていた。さっきまでいたはずなのに、いなくなった瞬間を見ていない。最初からいなかったみたいに、テーブルの脚だけがそこにある。


 「……いない」


 口の中でつぶやいた。理由を考えようとしたけれど、レジの音がそれを押し流す。忙しくなる前の静けさが、逆に耳に残った。


 午後一時すぎ、二人連れが入ってきた。男女だったと思う。二人とも静かで、目が合いそうで合わない。席を選ぶ声も小さく、テラス席に出ていった。


 注文はちゃんと覚えている。カップの種類も、甘さの有無も、追加の一言も。こういう作業の部分は意外と頭に残る。私は伝票に書き、レジに打ち、手渡しの段取りまで迷わずできた。


 電車が一本、通り過ぎた。


 低い振動が床を伝って、テラス席のカップがかすかに鳴る。ガラスがわずかに震える。その音が、なぜか一瞬だけ会話みたいに聞こえた。


 私は無意識にテラス席を見る。


 白いネコがいた。いつの間にか、二人の席の近くで丸くなっている。さっきまでいなかったのに。けれど驚きは小さい。「またいる」と思うだけで、理由を考えない。考えないほうが楽だった。


 店の中が少しずつ賑わい始め、午後二時半を回ったあたりで、ベルが強く鳴った。


 ――と、その直前。


 低い音が足元を抜けた。


 電車が一本、店の前を通り過ぎる。ガラスがわずかに震え、グラスが触れ合って乾いた音を立てた。その揺れが収まった直後に、ドアが開く。


 「すみません!」


 息を切らした声だった。カウンターに来た人は、目が落ち着かず、店内とテラス席を何度も見回している。バッグを握る手に力が入っていて、指の節が白い。


 「忘れ物……ありませんでしたか? 小さくて、でも、絶対に必要で」


 言葉が速い。必死なのが分かる。私は一瞬、頭の中で「落とし物トレー」と「連絡先メモ」の手順を並べた。こういうとき、ちゃんとした大人ならもっと落ち着いて対応するのかもしれない、と思う。でも私は、学生のまま、仕事の手順にすがる。


 「今のところはこちらには……。どんなものですか?」


 「……説明しづらいんです。でも、ここで確かに――」


 相手は言いかけた。私は続きを聞こうとした。ちゃんと聞けばよかった、と後から思えるように。


 でもその瞬間、後ろのお客さんが咳払いをした。列ができそうな気配がする。私はそちらに意識を引っ張られる。


 「もし見つかったら、こちらからご連絡しますね」


 メモ用紙を探しながら言った。ちゃんとした対応をしているつもりだった。“つもり”のまま、次の動作に移る。


 伝票を取ろうとして、一歩だけ横に動いた。


 床を見ていなかった。急ぐ必要はなかったはずなのに、体が先に動いた。


 そのとき、すねに、やわらかいものが触れた。


 ――あ。


 そう思っただけで、視線は上に戻っていた。何に触れたのか確認しなかった。踏んだわけじゃない。痛くもない。気に留めるほどの感触じゃない、と自分に言い聞かせた。


 店長が横に来て、いつも通りの声で言う。


 「うん、忘れ物ね」


 それから少しだけ間を置いて、


 「まあ、もあるよ」


 “そういう日”。人じゃなく、日で片づける言い方が引っかかった。けれど私は、引っかかった感覚を説明できなかった。


 落とし物の人は納得しきれない顔をしていた。怒鳴るわけでもなく、ただ焦りだけが浮いている。


 「……分かりました。すみません」


 その人が頭を下げた。私は「いえ」と言ったのか「申し訳ありません」と言ったのか、はっきり覚えているはずなのに、声の形がうまく残らない。言葉が出る前に内容が決まっていない感じがする。自分の声が、ほんの少し遅れて聞こえる。


 さっきまで、こんなことはなのに。


 落とし物の持ち主がドアを開けて外に出る。私は見送るつもりで視線を向けた。けれどその瞬間、テラス席のほうが少しだけざわついた。椅子を引く音。誰かが立ち上がる気配。


 顔を上げると、さっきの男女二人が、もう席を離れていた。


 いつ出ていったのか分からない。

 でも、タイミングとしては、落とし物の人が来たあたりだった気がする。


 テーブルの下を見る。


 白いネコもいなかった。


 いなくなった、というより、最初からいなかったようにも見える。私は一瞬だけ眉をひそめたけれど、次の注文の声に引き戻される。忙しさが引いた、というより、空気が一枚剥がれたような感じだった。


 私はふと、忘れ物の人の連絡先を書いてもらった紙のことを思い出した。レジ横に置いたはずだ。そう思って目を向ける。


 ない。


 メモ用紙と、使いかけのペンだけが残っている。


 「あれ……?」


 自分の動きが雑だったのかもしれない、と一瞬思う。でも、すぐに「あとで探せばいいか」と思った。見つからなかったら、見つからなかったで、その人も……もう気にしていないかもしれない。

 その発想が少し軽すぎる気もしたけど、深く考えるほどの余裕がなかった。


 夕方のピークが落ち着いたころ、私は店長の横に立ったままレジを打っていた。手元の動きは覚えている。レジの数字も合っている。なのに、内容が残らない。二人分の会計を私は確かにやっていたはずなのに、記憶の端が薄い。


 不安になって店長に聞いた。


 「さっきのテラスの二人って……もう会計、終わってますよね?」


 店長はグラスを拭く手を止めて、私を見た。


 「え?」


 それから、少しだけ間を置く。


 「……やったよね?」


 私は何か言い返そうとして、言葉が出なかった。聞いた自分が一番分からない。


 店長は不思議そうに眉を上げて、付け足す。


 「たしか……君が」


 その言い方は、責めているわけじゃない。事実を確認しているだけの声音なのに、私は少しだけ心臓が早くなった。


 店長は続ける。


 「ちゃんと合ってるなら、いいんじゃない?」


 事実より結果のほうを信じる人の言葉だった。私は「すみません」と笑ってしまう。こういうとき笑う癖が、自分の嫌いなところだと急に思った。


 午後五時すぎ、ドアが静かに開いた。


 いつもの人――常連客が、迷わず店内のカウンター、一番奥の席に座る。壁際の端で、そこからだと店内もテラス席も見渡せる。電車の音は聞こえるのに、振動はほとんど届かない場所だ。


 「いらっしゃいませ。いつもので、よろしいですか?」


 「うん、それで」


 私は注文を通しながら、つい言った。


 「今日は、少し静かですね」


 その人は店内を一度だけゆっくり見回してから答えた。


 「……そうでもない気がする。今日は特に」


 理由は言わない。店長と短く言葉を交わしているのが見えた。私はその様子を見ながら、なぜか足元を確認してしまう。何もない床が、いつも通りそこにある。


 閉店の準備に入る。テラス席のテーブルを拭き、椅子を重ねる。白い天板が夜の色を帯びて、少し青く見えた。


 床をモップで拭きながら、忘れ物の人のことを思い出す。

 ……何を探していたんだっけ。


 “小さいもの”“大事なもの”という印象だけが残っていて、形が出てこない。探そうと思えば探せたはずなのに、そうしなかった理由も分からない。私は自分の“ちゃんとしてなさ”を、そこでやっと思い出す。でも、思い出したところで何も変わらない。


 カウンターの中で、店長が売上表に丸をつけた。


 「今日も特に問題なし、っと」


 顔を上げて、私に言う。


 「助かったよ。今日は本当に平和だった」


 「……お疲れさまでした」


 私はそう返しながら、その言葉をそのまま受け取ることができなかった。

 平和だった、というより――何かが、きちんと形になる前に終わった感じがする。


 でも、それを言葉にするほどの確信もない。


 店長は照明を一つ落としながら、いつもの調子で言った。


 「こういう日が一番助かるんだよ。変なトラブルがないのがさ」


 私は「そうですね」と言って、頷いた。

 頷いたはずなのに、その瞬間、自分が何に頷いたのか、少しだけ分からなくなった。


 白いテラス席は静かで、白いネコはいなくて、

 それでも、最初からいなかったみたいに、店は整っていた。


 店長が鍵を回す音がして、ドアが閉まる。

 何事もなかった一日のように、私たちは店を閉めた。


 明日になれば、今日のことはもっとになる気がした。

 それが悪いことなのかどうかも、まだ分からないまま。

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曖昧なままのカウンター 朝凪 つばき @Tsubaki_Asanagi

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