第8節 愛という名の炎に触れ羽を焦がす蛾
夜が訪れた。
この閉鎖空間に昼夜の概念があるのかは怪しいが、窓の外の「白」が闇色に変わり、室内の魔力灯がほのかに灯っていることから、今は夜なのだろう。
俺はベッドの中で、均等な寝息を立てるフリをしていた。
隣には、ノエルがいる。
彼女は俺の腕に抱きつき、幸せそうな顔で眠っている――ように見える。
(……今だ)
俺は呼吸を殺し、慎重に体を動かした。
彼女の腕を解く。驚くほど軽い。
昼間、俺を拘束していた万力のような力が嘘のように、彼女は無防備にその手を離した。
チャンスだ。
俺は音もなくベッドを抜け出し、床に足をつけた。
心臓が早鐘を打っている。
『精神耐性EX』が恐怖を抑え込んでくれているおかげで、足が震えることはない。冷静だ。頭は冴えている。
目指すのは、この部屋の「出口」だ。
昼間に確認した通り、窓の外は空間が断絶しており、飛び降りることは不可能だ。
ならば、正攻法しかない。
俺が入ってきたあの扉。あそこを突破して階段を駆け下りれば、あるいは。
俺は忍び足で扉の前まで移動した。
巨大な両開きの扉。白銀のレリーフが、闇の中で鈍く光っている。
鍵はかかっているだろうか。
俺はドアノブに手をかけ、ゆっくりと回した。
カチャリ。
開いた。
あっけないほど簡単に、ノブは回った。
(鍵をかけてない? 油断したな、ノエル)
俺は内心でガッツポーズをし、扉を押し開けようとした。
――だが。
「……動かない?」
ビクともしなかった。
鍵がかかっている感触ではない。まるで、扉そのものが巨大な山脈の一部になったかのように、物理的に固定されている。
俺は深呼吸をし、全身に力を込めた。
今の俺のステータスはSランク冒険者相当だ。ドラゴンの鱗すら砕く怪力がある。
分厚い鉄扉だろうが、力任せに抉じ開けられるはずだ。
「ふんッ……!」
筋肉が軋み、血管が浮き出る。
ミシミシと嫌な音が響く。
だが、扉はミリ単位も動かない。
それどころか、扉の表面に刻まれたレリーフが淡く発光し、俺の力を吸収しているかのような感覚さえある。
「くそっ、これなら……!」
俺は拳を固めた。
押し開けられないなら、破壊するまでだ。
『無限再生』がある俺の拳は、壊れることを恐れない最強のハンマーだ。
俺は腰を落とし、渾身の一撃を扉の中心に叩き込んだ。
ドォォォォォンッ!!
衝撃波が室内に吹き荒れ、花瓶の花が舞い散る。
普通なら、城門すら粉砕する威力だ。
だが、硝煙が晴れた後に残っていたのは、傷一つついていない白銀の扉と――砕け散り、血まみれになった俺の拳だけだった。
「……はは、マジかよ」
ズキリとした痛みが走る暇もなく、シュウウと煙を上げて拳が再生していく。
無傷に戻った手を見て、俺は戦慄した。
硬すぎる。物理的な硬度ではない。これは「概念」の壁だ。
「この部屋からは出られない」というルールそのものが、物質化している。
「夜遊びには、少し早い時間ではありませんか? カナタ様」
背後から、冷ややかな声が降ってきた。
心臓が止まるかと思った。
俺は弾かれたように振り返る。
そこには、ベッドの上に座り、こちらを見下ろしているノエルの姿があった。
闇の中、彼女の白銀の髪だけが月明かりのように光っている。
瞳は閉じられたままだ。
だが、その表情には昼間の慈愛に満ちた微笑みはなく、能面のような静けさが張り付いていた。
「……トイレだよ。場所がわからなくてな」
「嘘ですね」
即答だった。
彼女がスッと手を上げる。
それだけで、俺の周囲の空間がギチリと歪んだ。
見えない圧力が四方八方から押し寄せ、俺の体をその場に縫い止める。
「心拍数、体温、発汗量……貴方の体の情報はすべて私が把握しています。貴方は今、トイレに行きたいわけでも、水を飲みたいわけでもない。ただ『私から逃げたい』と思っている」
ノエルがベッドから降りる。
ヒタ、ヒタ、と裸足が床を踏む音が、死刑執行のカウントダウンのように響く。
「なんでですか?」
問いかけは静かだった。
だが、そこに含まれる感情の質量は、昼間の比ではなかった。
「なんで逃げようとするんですか? ご飯も作った。お話もした。たくさん抱きしめてあげた。貴方が寂しくないように、私がずっと傍にいてあげたのに」
彼女が一歩近づくたびに、部屋の空気が重くなる。
物理的な重圧だ。
呼吸が苦しい。肺が押し潰されそうだ。
これが、世界を滅ぼす災厄の力。俺の「Sランク」という肩書きが、赤子の遊びに見えるほどの次元の違い。
「……俺は、ペットになるつもりはない」
俺は圧力に抗い、声を絞り出した。
ここで屈したら終わりだ。言葉で、意志で、彼女を拒絶しなければならない。
「俺は人間だ。自分の足で歩いて、自分の目で世界を見たいんだ。こんな鳥籠の中で一生を終えるなんて……死んでいるのと同じだ!」
「死ぬよりはマシでしょう?」
ノエルの声が、少しだけ低くなった。
「外に出れば、貴方はまた傷つく。誰かに利用され、裏切られ、心をすり減らす。……私、見たんですよ? 貴方の記憶を」
彼女が目の前まで来る。
俺の胸に手を当て、悲痛な顔で訴えかける。
「深夜のオフィスで、一人で泣いていた貴方を。誰にも助けを求められず、壊れていく貴方を。……あんな思いは、もう二度とさせません」
ドクン、と心臓が跳ねる。
彼女の言葉は、俺を想うがゆえの悲鳴だった。
俺を守りたい。俺を救いたい。その想いが強すぎて、歪んでしまっているだけだ。
だからこそ、タチが悪い。
彼女の行動原理は、100%俺のためなのだから。
「それは過去の話だ! 今の俺には力がある! 耐性もある! もう誰にも負けないんだよ!」
俺は彼女の手を振り払おうとした。
全力で。ドラゴンの顎すら砕く力で。
――パシッ。
俺の手首が、空中で掴み取られた。
彼女の細い指。
たったそれだけに、俺の全力の一撃が完全に封じ込められた。
「え……?」
「力なんて、何の意味もありませんよ」
ノエルは悲しげに首を振った。
「どんなに強い力があっても、心は脆いままです。貴方がどれだけ強がっても、私にはわかります。……貴方はまだ、傷つくことを恐れている迷子だということが」
ミチチ……と、手首が悲鳴を上げる。
痛い。
『無限再生』が追いつかないほどの速度で、骨が軋んでいる。
彼女は俺の手首を握りしめたまま、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
抵抗できない。
圧倒的な暴力。
俺の体は為す術なく彼女の懐へと崩れ落ちた。
「捕まえました」
ふわりと、彼女の腕が俺の背中に回る。
抱擁。
それは温かくて、柔らかくて――そして、鉄の鎖よりも強固だった。
「が、ぁ……っ!」
強い。
背骨が折れるかと思った。
彼女は全力で俺を抱きしめている。愛しさが余って、力加減ができていない。
いや、あえて俺に「痛み」を与えているのかもしれない。「逃げれば痛い目を見る」と体に教え込むために。
「離れようとするから、痛いんですよ」
耳元で、彼女が囁く。
「大人しくしていれば、こんなに痛いことはしません。……ねえ、カナタ様。どうしてわからないの? 私は貴方を愛しているだけなのに」
彼女の手が、俺の後頭部を撫でる。
逃げようともがく俺の体を、さらに強く抱きすくめる。
肋骨が軋む音。筋肉が断裂する音。
だが、そのすべてを彼女の甘い声がかき消していく。
「貴方は弱い。一人では生きられない。私が守ってあげないと、すぐに壊れてしまう硝子細工なんです」
――違う。
俺は強いはずだ。最強のはずだ。
否定したいのに、体が動かない。
彼女の腕の中で、俺は赤子のように無力だった。
これが、格の違い。
俺が誇っていた「Sランク」なんて、彼女の前では紙切れ同然だったのだ。
「いい子にしますか? それとも……」
彼女の声色が、ふっと変わった。
温度が消えた。
そして、俺は見上げてしまった。
至近距離にある、彼女の顔を。
開いていた。
いつも閉じられていた彼女の瞳が、薄っすらと開いている。
その隙間から覗くのは、深紅の輝き。
美しい宝石のような、あるいは凝固した血のような、底知れぬ深淵の色。
「足を折って、一生ベッドの上でしか生きられないようにしてあげましょうか?」
ヒュッ、と喉が鳴った。
本気だ。
この女は、俺を愛するがゆえに、俺の機能を奪うことに躊躇がない。
五体満足で逃げられるくらいなら、ダルマにしてでも手元に置くタイプだ。
恐怖。
『精神耐性EX』すら貫通する、生物としての根源的な恐怖が、俺の全身を駆け巡った。
「……い、いい子に……する」
震える唇から、屈服の言葉が漏れた。
今の俺にできるのは、これだけだった。
「ふふっ、えらいです。よくできました」
ノエルの瞳が再び閉じられる。
途端に、部屋の空気が緩んだ。
彼女の腕の力が抜け、優しい抱擁へと変わる。
「ごめんなさいね、痛かったでしょう? すぐに治してあげますから」
彼女は俺の額に口づけをした。
それだけで、軋んでいた骨の痛みが引いていく。
飴と鞭。
完璧な支配。
「さあ、ベッドに戻りましょう。夜はまだ長いです。……朝まで、こうして抱きしめていてあげますから」
俺は彼女に支えられ、千鳥足でベッドへと戻った。
羽毛布団の中に押し込まれ、再び彼女の腕の中に閉じ込められる。
逃げられない。
物理的にも、精神的にも、実力的にも。
俺は、愛という名の炎に魅入られた蛾のように、自ら羽を焦がして落ちてしまったのだ。
彼女の寝息が、俺の首筋にかかる。
その温もりが、今は何よりも恐ろしく、そして皮肉なことに――何よりも安心できるものに感じられた。
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