第7節 茨の庭で振る舞われる穏やかな朝食

小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光。

 そして、鼻先をくすぐる芳醇なコーヒーの香り。


 覚醒の瞬間、俺は一瞬だけここが前世の休日の朝だと錯覚した。

 過労で倒れる前の、まだ平穏だった頃の記憶。

 だが、そのまどろみは、頬に触れる「冷たくて柔らかいもの」によって霧散した。


「……おはようございます、私の旦那様」


 目を開けると、そこには至近距離でこちらを覗き込む天使がいた。

 ノエルだ。

 彼女はベッドの脇に椅子を寄せ、頬杖をついて俺の寝顔を眺めていたらしい。

 その閉じられた瞳は、愛おしそうに細められている。


「……おはよう。いつから見ていた?」

「ふふ、二時間ほど前からですね。貴方の寝顔があまりに可愛らしくて、起こすのが勿体なかったものですから」


 二時間。

 背筋にうっすらと寒気が走る。

 俺が無防備に眠っている間、彼女はずっと俺を観察していたのか。瞬きもせず、身じろぎもせず。

 それは愛情表現なのだろうが、俺にとっては「監視」という言葉の方がしっくりくる。


「よく眠れましたか? うなされてはいませんでしたか?」

「ああ……おかげさまでな」


 悔しいが、熟睡してしまった。

 このベッドの寝心地が良すぎるせいだ。あるいは、この部屋に充満する甘い香りに、睡眠導入の効果でもあるのかもしれない。

 『精神耐性EX』が反応しない以上、それは「悪意ある睡眠薬」ではなく、「安眠のアロマ」扱いなのだろう。


「さあ、起きてください。朝食の用意ができていますよ」


 ノエルが立ち上がり、手を差し伸べてくる。

 俺はその手を無視して自力で起き上がろうとしたが、布団が重い。

 見れば、最高級の羽毛布団が、まるで俺を離さないと言わんばかりに体に絡みついている。


「……手伝いましょうか?」

「いや、いい。自分で起きる」


 俺は意地を張ってベッドから這い出した。

 これ以上、彼女に借りを――いや、「世話」を作ってはいけない気がした。

 洗顔も着替えも自分でやる。それが、今の俺に残された最後のプライドだ。


 身支度を整え(といっても、用意されていた服は肌触りの良いシルクの部屋着だったが)、俺はノエルの後について部屋を出た。



 通されたのは、昨日の寝室の奥にある「庭園」だった。


「これは……」


 俺は息を呑んだ。

 そこは、塔の中とは思えないほど広大な空間だった。

 天井はなく、どこまでも続く青空(偽物だろうが)が広がっている。

 色とりどりのバラが咲き乱れ、中央には白亜のガゼボ(西洋風の東屋)が佇んでいる。


 だが、美しいだけではない。

 花々の根元には、鋭利な棘を持つ蔦が、蛇のように這い回っていた。

 その棘は金属のような光沢を放ち、不用意に近づく者を切り裂く凶器に見える。


「素敵でしょう? 貴方のために整えた『茨の庭』です」


 ノエルは誇らしげに胸を張った。


「この茨は、外敵を排除するための自動防衛システムです。もし誰かがこの空間に侵入しようとすれば……瞬時にミンチにして、バラの肥料にしてしまいますわ」

「……趣味が悪いな」

「そうですか? 私は、害虫がいなくなる静かな世界が好きですよ」


 彼女は悪びれもせず微笑み、ガゼボの中にあるテーブルへと俺をエスコートした。

 真っ白なテーブルクロスの上には、湯気を立てる料理が並んでいる。


 ――それを見て、俺は再び絶句した。


 焼き魚。卵焼き。豆腐の味噌汁。そして、艶やかな白米。

 それは、異世界に来てから一度も目にすることのなかった、完璧な「和食」だった。


「……どうして」

「ん? 何かお気に召しませんでしたか?」

「どうして、このメニューを知っている? この世界の料理じゃないはずだ」


 俺の声が震える。

 ノエルは首を傾げ、さも当然のように答えた。


「貴方の夢を見たと申し上げたでしょう? 貴方の記憶、貴方の故郷、貴方の好きな味……全て知っていますよ。だって、私は貴方の伴侶になる女ですから」


 彼女は俺の魂を読み取ったのだ。

 『精神耐性』で防御しているはずの深層意識を、彼女の「愛」は軽々とすり抜けて、情報を引き出した。

 プライバシーなど存在しない。

 彼女の前では、俺は丸裸も同然だ。


「さあ、召し上がれ。少し味付けは薄めにしました。貴方の胃は、ストレスで弱っていましたから」


 俺は椅子に座らされ、箸を持たされた。

 逃げたい。今すぐこの場から走り去りたい。

 だが、味噌汁の香りが、強烈なノスタルジーを呼び起こす。

 前世で、深夜のコンビニ弁当ばかり食べていた俺が、ずっと焦がれていた家庭の味。


 俺は震える手で味噌汁を口に運んだ。

 ……美味い。

 出汁の香りが鼻に抜け、優しい塩気が体に染み渡る。

 涙が出そうになるほど、完璧な味だった。


「美味しいですか?」


 向かいの席で、ノエルが頬杖をついて見ている。

 彼女は自分の分を用意していない。俺が食べる姿を見ることだけが、彼女にとっての食事であるかのように。


「……ああ。美味いよ、悔しいけどな」

「よかった。ふふ、貴方が美味しそうに食べてくれると、私まで幸せな気持ちになります」


 ノエルは目を細め、テーブルの上に手を伸ばしてきた。

 俺の頬に付いた米粒を、指先でそっと拭い取る。

 そして、その指を自分の口に含み、あどけない仕草で舐め取った。


「ん……甘いですね」


 ドクン、と心臓が跳ねる。

 その何気ない動作に、濃厚な色気が宿っていた。

 彼女は聖女のように清らかで、同時に悪魔のように妖艶だ。


「カナタ様。これから毎日、私が貴方のためにご飯を作ります。お風呂も沸かします。貴方が望むなら、どんなことでもしてあげます」

「……対価は?」

「対価?」

「タダでこんなことをするわけがない。俺に何を求めている?」


 俺は箸を止めて聞いた。

 この甘い生活の裏に、どんな恐ろしい要求が隠されているのか。


 ノエルは少し驚いたように瞬きをして、それから、とろけるような笑顔で答えた。


「何もいりませんよ。ただ、貴方がここにいてくれれば」


 彼女は立ち上がり、俺の背後へと回った。

 ふわりと背中に覆いかぶさり、俺の首筋に顔を埋める。


「貴方が外に出て傷つかないこと。誰にも利用されず、誰にも心をすり減らさず、ただ穏やかに生きてくれること。……それが私の願いであり、報酬です」


 嘘だ。

 そんな無償の愛があるわけがない。

 俺の『精神耐性』は、悪意や嘘を見抜くことができる。

 だが、今もスキルは沈黙している。

 彼女は本気で言っているのだ。100%の善意で、俺をこの鳥籠に閉じ込めようとしている。


「……それは、俺の自由を奪うことだぞ」

「自由とは何ですか?」


 ノエルが囁く。


「誰かに命令され、理不尽に頭を下げ、夜も眠れずに働くことが自由ですか? 危険な魔物と戦い、いつ死ぬかわからない恐怖に怯えることが自由ですか?」


 彼女の指が、俺の胸元を這う。


「そんなものは自由ではありません。ただの『放置』です。……本当の幸福は、誰かに守られ、愛され、何も心配しなくていい場所にあるんですよ」


 甘い毒だ。

 彼女の言葉は、俺の心の最も脆い部分――「もう疲れた」という本音を的確に突き刺してくる。

 ここで頷いてしまえば、俺は永遠に楽になれる。

 最強のヒロインに養われ、愛され、死ぬまで微温湯の中で暮らす人生。

 それは、ある意味で究極の「勝ち組」かもしれない。


 だが。


(……それでも、俺は)


 俺は箸を強く握りしめた。

 流されてはいけない。ここで頷けば、俺という人間は死ぬ。

 「相川カナタ」ではなく、彼女の「愛玩人形」になってしまう。


「ごちそうさま。美味かった」


 俺は食事を終え、努めて平静を装って立ち上がった。

 ノエルの腕が名残惜しそうに離れる。


「お粗末様でした。……少し、庭を散歩しますか? 食後の運動にちょうどいいですよ」

「いや、部屋に戻る。少し考えたいことがあるんだ」

「そうですか。無理はいけませんものね。ごゆっくり」


 ノエルは素直に俺を解放した。

 今のところ、強引な拘束はない。

 だが、俺は知っている。この庭の茨が、ただの飾りではないことを。

 そして、彼女の背中にある「見えない翼」が、いつでも俺を逃がさないように広がっていることを。


 俺は逃げるように部屋へと戻った。

 背中に感じる彼女の視線は、どこまでも温かく、そして底知れぬほど深かった。


 鳥籠の扉は開いている。

 だが、外に出るための翼を、俺はまだ持っていない。

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