第9節 白き繭の中で理屈は熱に溶け落ち
朝が来た。
この閉鎖空間に太陽は昇らないが、天井に描かれた空の絵が明るさを増し、小鳥のさえずりがスピーカーから流れるように響き渡ることで、それが朝だと知らされる。
俺は、目を覚ますと同時に自分の体を確認した。
足は……動く。
腕も、指先も、感覚がある。
昨夜の「足を折る」という宣告は、今のところ実行されていないようだ。
「……よかった」
安堵の溜息が漏れる。
だが、その直後に背筋が凍った。
俺の腰に、白くて細い腕が回されていることに気づいたからだ。
「ん……おはようございます、カナタ様」
背中越しに、甘い声が聞こえる。
ノエルだ。彼女は俺の背中にぴったりと張り付き、抱き枕のように俺を抱きしめて眠っていたらしい。
彼女の体温と、甘い花の香りが俺を包み込んでいる。
「……おはよう」
俺は機械的に返事をした。
昨夜の恐怖が、鮮明に蘇る。
彼女が開眼した瞬間の、あの底知れぬ深淵の瞳。そして、圧倒的な力の差。
下手に動けば、今度こそ本当に手足を砕かれるかもしれない。そんな本能的な怯えが、俺の体を硬直させていた。
「ふふ、体温が高いですね。……まだ、昨日の夜のことを考えていますか?」
ノエルが首筋に唇を寄せる。
チロリ、と舌先で肌を撫でられたような感覚に、俺はビクリと肩を震わせた。
「怯えなくていいんですよ。貴方が『いい子』でいる限り、私は貴方を傷つけません。……約束しましたよね?」
「あ、ああ……わかってる」
「よろしい。素直な旦那様には、ご褒美が必要です」
ノエルは上機嫌にベッドから降りると、俺の手を引いた。
「さあ、行きましょう。昨夜は少し汗をかきましたものね。綺麗に洗い流してさしあげます」
◇
連れて行かれたのは、寝室の隣にある浴室だった。
いや、それを浴室と呼ぶのははばかられるかもしれない。
白大理石で造られたその空間は、王宮の大広間のように広く、湯気で白く煙っていた。
中央には、巨大な円形の浴槽が鎮座している。
満たされた湯からは芳醇なハーブの香りが立ち上り、水面には真っ白な泡が雲海のように浮かんでいた。
「お風呂……か」
「はい。この塔の地下から汲み上げた特別な霊泉です。疲労回復はもちろん、精神を安定させる効果もあるんですよ」
ノエルは浴槽の縁に腰掛けると、俺に向かって手招きをした。
「さあ、脱いでください」
「……え?」
「お風呂に入るのでしょう? 服を着たままでは入れませんよ」
当然のことを言うように、彼女は微笑んでいる。
だが、俺の足は動かなかった。
彼女がいる。彼女が見ている前で、裸になれと言うのか。
「い、いや、一人で入れる。お前は外で待っててくれ」
「何を言っているんですか?」
ノエルはキョトンとして、それから困ったように眉を下げた。
「貴方は昨日、脱走しようとして、私に取り押さえられたばかりでしょう? そんな『悪い子』を、一人にするわけがないじゃありませんか」
「っ……」
「それに、背中も流してあげたいんです。夫婦なんですから、当然のことですよね?」
彼女が立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。
拒否権はない。
その瞳は閉じられているが、俺にはわかる。昨夜のあの深紅の瞳が、瞼の裏でギラギラと俺を監視しているのが。
(……逆らえない)
俺は屈辱に唇を噛み締めながら、自らの手でボタンを外した。
一枚、また一枚と衣服が床に落ちる。
最後に下着を脱ぎ捨て、生まれたままの姿になった俺を、ノエルは恍惚とした表情(といっても目は閉じているが)で眺め回した。
「ああ……なんて綺麗な体。傷一つない、私だけの真っ白なキャンバス」
彼女の指先が、俺の胸板を這う。
冷たい指と、熱い吐息。
恥ずかしさよりも、捕食者に品定めされているような恐怖が勝った。
「さあ、入りましょう。温かいですよ」
彼女に手を引かれ、俺は浴槽へと足を踏み入れた。
――瞬間、思考が溶けた。
熱い湯が全身を包み込む。
ただのお湯ではない。肌に吸い付くようなとろみのある湯は、細胞の一つ一つに染み渡り、凝り固まった筋肉を強制的に解きほぐしていく。
「ふ、ぁ……」
思わず、情けない声が漏れた。
気持ちよすぎる。
前世の過労で蓄積した芯の疲れも、昨夜の恐怖で強張った神経も、すべてが湯の中に溶け出していく感覚。
「ふふっ、いいお顔」
チャプン、と音がして、ノエルもまた湯の中に入ってきた。
彼女は薄いドレスを纏ったままだが、湯に濡れて肌に張り付き、その肢体のラインが露わになっている。
だが、今の俺にはそれを性的だと感じる余裕すらなかった。
彼女は俺の背後に回り込み、ふわりと俺を抱き寄せた。
背中に感じる柔らかい感触。
白い泡が、まゆのように二人を包み込んでいく。
「じっとしていてくださいね。私が洗ってあげますから」
彼女の手が、たっぷりと泡を含んだスポンジのように、俺の体を撫で回す。
首筋から肩、そして背中へ。
その手つきは優しく、慈愛に満ちていて、そして逃げ場がないほどに執拗だった。
「こ、自分でやる……!」
「ダメです」
俺がスポンジを奪おうとすると、彼女は俺の手首を軽く握った。
それだけで、俺の腕はピクリとも動かなくなった。
「貴方は何もしてはいけません。考えることも、動くことも。……ただ、私に身を委ねていればいいんです」
彼女の指が、俺の髪をすく。
頭皮をマッサージするような心地よい刺激。
俺の『精神耐性EX』は、ここでも沈黙を守っていた。
これは攻撃ではない。「癒やし」だ。
極上の快楽と安らぎは、俺の精神防御をすり抜けて、無防備な脳髄を直接揺さぶってくる。
(あ、これ……ヤバい……)
思考がまとまらない。
抗おうとする意志が、湯気と共に蒸発していく。
温かい。気持ちいい。楽だ。
何も考えなくていいということが、これほどまでに甘美なことだとは知らなかった。
前世では、常に何かを考えていなければならなかった。
明日のスケジュールのこと。上司の機嫌。納期のプレッシャー。
一分一秒たりとも、脳を休める暇はなかった。
転生してからもそうだ。「最強」であり続けるために、周囲に舐められないように、常に気を張っていた。
でも、今は違う。
この白い泡の繭の中では、俺は何者でもない。
ただの、無力な赤子だ。
「そう、力を抜いて……。貴方のその強張った心も、全部私が溶かしてあげます」
ノエルが俺の耳元で囁く。
彼女の洗う手が、胸元へ、腹部へと滑り落ちていく。
俺は抵抗することも忘れ、されるがままになっていた。
いや、抵抗したくなかったのかもしれない。
この全能の女神のような少女に全てを委ねてしまえば、もう二度と傷つくことも、悩むこともないのだから。
「カナタ様。外の世界に、こんなに気持ちのいい場所がありますか?」
問いかけに、俺はぼんやりと首を振った。
ない。
あの寒くて痛い世界には、こんな天国はない。
「でしょう? だから、ここにいましょう。私の鳥籠の中にいれば、貴方は一生、この温もりの中で生きていけるんですよ」
彼女の言葉が、真理のように聞こえた。
自由? 冒険?
そんなもののために、この快楽を手放すというのか?
馬鹿げている。外に出て何になる。どうせまた、辛い思いをするだけじゃないか。
「……あ……」
口から、言葉にならない吐息が漏れる。
理屈が、プライドが、雪解け水のように溶け落ちていく。
俺の心を守っていた鋼鉄の盾は、熱に晒された飴のようにドロドロになり、機能を失っていた。
「いい子ですね」
ノエルは満足げに微笑み、ぐったりと力の抜けた俺を抱きしめた。
「もう何も考えなくていいの。貴方は私の可愛いお人形。……壊れないように、汚れないように、私が一生愛でてあげますから」
湯気が視界を白く染める。
その白さに同化するように、俺の自我も薄れていく。
彼女の腕の中こそが世界の全てであり、それ以外は不要なノイズだと思えるほどに、俺は堕ちていた。
◇
風呂から上がり、柔らかなタオルで体を拭かれた後も、俺の意識は朦朧としていた。
ノエルに着せ替え人形のように服を着せられ、椅子に座らされる。
ドライヤー代わりの風魔法で髪を乾かされながら、俺は虚空を見つめていた。
悔しさはない。恐怖もない。
あるのは、脳髄が痺れるような深い安らぎと、気だるい充足感だけ。
「さっぱりしましたね、カナタ様」
ノエルが俺の髪に口づけを落とす。
俺は反射的に、彼女の腰に手を回しそうになった。
甘えたい。もっと撫でてほしい。
そんな幼児退行にも似た欲求が、心の奥底から湧き上がってくる。
ハッとして、俺は手を止めた。
なんて様だ。
俺はSランク冒険者だぞ。最強の精神耐性を持つ男だぞ。
それが、たかが風呂に入ったくらいで、飼い主に尻尾を振る犬のように懐柔されているなんて。
(……くそ、強すぎる)
この女の武器は、暴力だけではない。
この徹底的な「奉仕」と「快楽」こそが、俺の心を砕く最強の武器なのだ。
「今日は何をしましょうか? 読み聞かせをしてあげましょうか? それとも、またお昼寝をしますか?」
彼女は楽しそうに提案してくる。
俺は膝の上で拳を握りしめた。
まだだ。まだ完全に堕ちたわけではない。
だが、この白い繭の中から抜け出す気力は、今の俺にはもう残っていなかった。
理屈は熱に溶け、残ったのは甘い依存の種だけ。
それが芽吹くのは、そう遠い未来ではない気がした。
次の更新予定
『精神耐性』カンストの俺、最凶の「眠り姫」を起こしてしまい、永遠の鳥籠へ。 ~君の愛が重すぎて、メンタルガードが息をしてません~ こん @konn366
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