第6節 閉ざされた瞳の奥で深淵が愛を囁く

 ふわり、と。

 意識の浮上と共に感じたのは、雲の上に寝そべっているかのような極上の柔らかさだった。


 鼻をくすぐる甘い花の香り。

 肌に触れるシルクの滑らかな感触。

 遠くで聞こえる小鳥のさえずりと、穏やかな午後の日差しのような暖かさ。


(……俺は、死んだのか?)


 ぼんやりとした頭で、俺はそう結論づけた。

 あんな化け物じみた少女に捕まったのだ。生きていられるはずがない。

 ここは天国か、あるいは都合の良い死後の夢か。

 どちらにせよ、前世の過労死寸前のオフィスや、極寒の吹雪の中にいるよりはずっとマシだ。


 俺は重いまぶたを開けた。

 視界に飛び込んできたのは、レースの天蓋と、高い天井に描かれた美しいフレスコ画だった。


「――お目覚めですか、カナタ様」


 すぐ傍らで、鈴を転がすような声がした。

 心臓がドクンと跳ねる。

 俺は弾かれたように顔を向けた。


 そこに、彼女はいた。

 白銀の髪をサラサラと流し、天使のような羽飾りを揺らす少女、ノエル。

 彼女はベッドの縁に腰掛け、閉じられた瞳を俺に向けて微笑んでいた。


「おはようございます。……いえ、もうお昼ですね。ぐっすり眠っていましたよ」


 彼女は甲斐甲斐しく俺の額に手を当て、熱を測るような仕草をした。

 その手は冷たくて、気持ちがいい。

 夢じゃない。

 俺は生きている。そして、あの塔の最上階にまだいるのだ。


「っ……!」


 俺は反射的に起き上がろうとした。

 だが、体に力が入らない。

 怪我をしているわけではない。『無限再生』のおかげで肉体のコンディションは最高だ。

 なのに、指先一つ動かすのが億劫に感じる。

 まるで、極上の微温湯に首まで浸かっていて、そこから出たくないと脳が拒否しているような、奇妙な倦怠感。


「いけませんよ、急に動いては。貴方のこころはまだ、回復の途中なのですから」


 ノエルは優しく俺の肩を押し戻した。

 強い力ではない。だが、逆らえない。

 彼女の手のひらから、じんわりとした熱――質量を持った「好意」が流れ込んでくるからだ。


「ここは……どこだ。俺をどうするつもりだ」


 俺は掠れた声で問いかけた。

 ノエルは不思議そうに首を傾げる。


「ここは私と貴方の愛の巣です。どうするも何も……これからはずっと、二人で幸せに暮らすんですよ?」

「ふざけるな。俺は冒険者だ。こんなところで……」

「お腹、空きましたよね?」


 俺の反論を遮るように、彼女はサイドテーブルから湯気の立つボウルを手に取った。

 黄金色に輝くスープからは、食欲をそそる濃厚な香りが漂っている。

 グゥ、と俺の腹が情けない音を立てた。


「ふふっ、正直な体で可愛いです」


 ノエルはスプーンでスープをすくい、フーフーと息を吹きかけて冷ます。

 その仕草があまりにも自然で、そして恐ろしいほどに「新妻」めいていた。


「はい、あーん」


 スプーンが俺の口元に差し出される。


「……自分で食える」

「ダメです。病人は大人しく甘えるのが仕事ですよ」

「俺は病人じゃな……んぐっ!?」


 抗議しようと口を開いた瞬間、スプーンが滑り込んできた。

 口いっぱいに広がる、爆発的な旨味。

 野菜の甘みと肉のコク、そして僅かに混じる魔力の痺れ。

 前世で食べたどんな高級料理よりも、転生後に王都で食べたどんなご馳走よりも美味かった。


(なんだこれ……美味すぎる……)


 脳がとろけるような感覚。

 俺の『精神耐性』が働かない。

 毒が入っているわけではない。ただ純粋に、極限まで手間暇をかけ、愛情を込めて作られた料理だからだ。

 悪意のない快楽を、俺のスキルは防げない。


「美味しいですか?」


 ノエルが嬉しそうに微笑む。

 俺は悔しさに歯噛みしながらも、嚥下してしまう。


「……味は、悪くない」

「よかった。たくさん作りましたから、全部食べてくださいね。貴方の体は細すぎます。もっと栄養をつけて、私好みの丈夫な旦那様になってもらわないと」


 彼女は次々とスープを俺の口に運んでくる。

 拒否権はない。

 俺が少しでも顔を背けようとすると、彼女は悲しげに眉を下げ、「食べてくれないと、私が死んでしまいます」とでも言いたげなオーラを放つのだ。

 その無言の圧力に、俺の精神が摩耗していく。


 完食する頃には、俺はすっかり毒気を抜かれてしまっていた。

 満腹感と、心地よい疲労感。

 ベッドの柔らかさが、俺を再び眠りの底へと誘おうとする。


「……俺は、帰るぞ」


 最後の理性を振り絞り、俺は言った。


「外には俺の居場所がある。依頼もあるし、待っている連中も……」

「いませんよ」


 ノエルがきっぱりと言い切った。

 その声の冷たさに、俺は息を呑む。

 彼女は閉じた瞳のまま、俺の方へと顔を近づけ、そっと俺の頬に手を添えた。


「外の世界に、貴方の本当の居場所なんてありません。貴方を利用しようとする人間、貴方を傷つけようとする悪意……そんなものしかありませんわ」


「それは……」

「知っています。貴方が前世でどれだけ苦しんだか。どれだけ心をすり減らして、誰にも愛されずに死んでいったか」


 心臓を鷲掴みにされたような衝撃。

 なぜ、前世のことまで。


「貴方のその『精神耐性』……それは強さの証ではありません。貴方の心が一度壊れてしまった、悲しい傷跡です」


 ノエルは悲痛な面持ちで、俺の胸に手を当てる。


「もう、頑張らなくていいんです。鎧を着込んで、平気なフリをして……そんな風に生きるのは辛いでしょう? ここでは全部脱いでいいんですよ」

「……っ」


 反論できなかった。

 図星だったからだ。

 俺が求めた「最強の自由」は、結局のところ「もう傷つきたくない」という逃避でしかなかった。

 それを、この少女は完全に見抜いている。


「私が守ってあげます。世界中の全てを敵に回しても、私だけは貴方の味方です。だから……」


 彼女が俺の首に腕を回し、抱き寄せる。

 甘い花の香りが鼻腔を満たす。


「貴方はただ、私に愛されていればいいんです。何も考えず、何もせず、ただ幸せな夢を見ていればいい」


 ドクン、ドクンと、俺の心臓が警鐘を鳴らす。

 これは「洗脳」だ。

 魔法ではない。言葉と態度、そして圧倒的な「愛」による、人格の書き換えだ。

 『精神耐性EX』が沈黙している。

 彼女の言葉が、俺の心の隙間に染み込んでくる。


(楽に、なりたい)


 ふと、そんな思考が過った。

 ここで彼女の言う通りにしていれば、もう戦わなくていい。上司もいない。孤独もない。

 ただ、この温かい腕の中で眠っていればいい。

 それは、前世の俺が死ぬ瞬間に願った「安らぎ」そのものではないか?


「――ッ! だ、めだ……!」


 俺は自分の頬を抓(つね)った。

 痛覚はないが、衝撃で意識を覚醒させる。

 危ない。飲み込まれるところだった。

 この安らぎは「死」と同じだ。俺の自我が死んで、彼女のペットに成り下がる。


「俺は……俺の足で歩きたいんだ。過保護な飼い主は必要ない」


 俺は彼女の腕を振り解き、ベッドから転がり落ちるようにして床に立った。

 足がふらつく。だが、立つことはできた。


「あら」


 ノエルは残念そうに小首を傾げた。

 怒ってはいない。ただ、聞き分けのない子供を見るような、困ったような微笑み。


「まだ、外への未練がありますか? あんな寒くて残酷な世界に」

「ああ。俺にとっては、そこが自由な世界なんだよ」


 俺は窓へと歩み寄った。

 ここから飛び降りれば逃げられるはずだ。『無限再生』があれば着地の衝撃にも耐えられる。

 厚いカーテンを開け放つ。


 ――そこにあった光景を見て、俺は絶句した。


「……なんだ、これ」


 窓の外には、空がなかった。

 地面も、山も、吹雪さえもなかった。

 あるのは、一面の「白」。

 乳白色の霧のような、あるいは壁のようなものが、窓の外を埋め尽くしている。


「言ったでしょう? ここは愛の巣だと」


 背後から、ノエルが忍び寄る。

 彼女は俺の背中にぴったりと体を預け、耳元で囁いた。


「この塔の最上階は、空間ごと世界から切り離しました。貴方が外に出て怪我をしないように。悪い虫がつかないように」


 隔離空間。

 それも、塔全体を結界で包むなんてレベルではない。

 この部屋そのものが、世界から隔絶された「異界」になっているのだ。


「出口はありません。貴方が出られるのは、私が『出してもいい』と思った時だけ。……でも、そんな日は来ませんよ」


 彼女の手が、俺の手を握りしめる。

 恋人繋ぎ。

 だがその指の力は、俺の骨を軋ませるほどに強く、絶対的だった。


「だって、外は危ないですから。貴方は一生、私の箱庭で暮らすんです」


 俺は窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 青ざめ、恐怖に引きつった顔。

 そしてその背後で、目を閉じたまま恍惚とした表情で俺に張り付く、美しい天使の姿。


 逃げ場はない。

 最強の精神耐性も、無限再生も、この閉ざされた空間では何の意味も持たない。


 深淵が、愛を囁いている。

 その甘い響きに、俺の心はゆっくりと、しかし確実に侵食され始めていた。

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