第5節 悠久の静寂を乱す無垢な咎人の足音

「……は?」


 凍てついた静寂の部屋に、俺の間の抜けた声が響いた。

 思考が停止する。

 今、この少女はなんと言った?

 旦那様? 俺が?


 目の前の少女――ノエルは、ベッドの上に座ったまま、閉じられた瞼を俺に向けて微笑んでいる。

 その表情には一点の曇りもない。まるで、長年連れ添った最愛の夫の帰宅を出迎えるような、慈愛に満ちた顔だ。


「……人違いだ。俺の名前はカナタ。お前を倒しに来た冒険者だ」


 俺は困惑を押し殺し、努めて冷徹な声を作った。

 腰の剣に手をかけ、一歩下がる。

 相手がどれほど可憐な美少女であろうと、ここは魔境の最奥。油断すれば命はない。


 だが、ノエルは俺の殺気など微塵も感じていないかのように、ふわりと笑った。


「ええ、知っていますよ。カナタ様。強くて、勇敢で……でも、本当はとっても『寂しがり屋』で『不器用』な人」

「なっ……」

「ずっと見ていましたから。貴方が草原で目覚めた時も、街で一人でお酒を飲んでいた時も、この塔へ向かって歩いている時も……夢の中で、ずっと」


 ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。

 見ていた? 夢の中で?

 彼女はずっとここで眠っていたはずだ。封印されていたはずだ。

 それなのに、俺の行動をすべて把握していたというのか。


「貴方はいつも笑っていましたね。でも、その心の奥では泣いていた。誰にも理解されない孤独に震えていた。……可哀想なカナタ様」


 ノエルがベッドから降りる。

 素足が床に触れる音がしない。

 重力さえも彼女に遠慮しているかのように、彼女は滑るように俺との距離を詰めてくる。


「寄るな!」


 俺は反射的に剣を抜いた。

 鋼鉄の刀身が、室内の魔力灯を反射して煌めく。

 切っ先を彼女の喉元、その白く華奢な首筋に突きつける。


「それ以上近づけば斬る。俺はSランク冒険者だ。女だからといって手加減はしない」


 これは脅しではない。

 俺の『無限再生』と剣技があれば、どんな敵も屠れる。そう信じていた。

 だが。


「ふふっ」


 ノエルは鈴を転がすように笑った。

 止まらない。

 彼女は突きつけられた切っ先を恐れる素振りも見せず、無防備なまま胸を張り、俺の剣に向かって歩みを進めてくる。


「おい、待て! 刺さるぞ!?」


 俺の方が狼狽した。

 このままでは自分の意思とは関係なく、彼女の喉を貫いてしまう。

 俺は咄嗟に剣を引こうとした――が、遅かった。

 彼女の柔らかな肌が、鋭利な刃に触れる。


 キィィィィン……。


 耳障りな金属音が響いた。

 血は出なかった。

 代わりに、俺の愛剣が――ミスリルの合金で鍛えられた業物が、まるで飴細工のようにぐにゃりとひしゃげたのだ。


「……は?」


 俺は折れ曲がった剣を見つめ、絶句した。

 彼女は何もしていない。ただ、歩いただけだ。

 俺の剣が、彼女の肌という「絶対的な壁」に負けて、勝手に壊れたのだ。


「危ないですよ、カナタ様」


 ノエルはひしゃげた刀身を、素手で優しく包み込んだ。


「そんな尖ったものを持っていたら、貴方が怪我をしてしまいます。外の世界は、貴方のような繊細な魂には刺激が強すぎるわ」


 パキン、と。

 彼女が指に少し力を入れただけで、鋼鉄の剣が粉々に砕け散った。

 破片がキラキラと床に降り注ぐ。

 俺の手には、無惨な柄だけが残された。


(化け物だ……)


 本能が警鐘を鳴らす。

 『氷獄の死神』など比較にならない。

 目の前にいるのは、生物としての次元が違うナニカだ。

 俺の『無限再生』も、この圧倒的な理不尽の前では何の意味もなさないかもしれない。


 逃げなければ。

 俺は柄を投げ捨て、後方へと跳躍した。

 出口の扉までは十メートル。俺の身体能力なら一瞬だ。


 だが。


「逃がしませんよ?」


 耳元で、甘い声がした。

 気づけば、ノエルが目の前にいた。

 瞬間移動? 時間停止? 違う、認識できなかったのだ。彼女の動きが速すぎて、俺の動体視力が追いつかなかった。


「捕まえました」


 ふわりと、甘い花の香りが俺を包み込む。

 彼女の細い腕が、俺の背中に回された。

 抱擁。

 ただの、愛に溢れたハグ。

 しかし、それは俺にとって、万力で締め上げられるような拘束だった。


「が、はっ……!」


 息ができない。

 力が強いわけではない。彼女の体は柔らかく、温かい。

 なのに、びくともしない。巨木に蟻がしがみついているような、絶対的な質量差を感じる。


「離せ……! 離せぇぇッ!!」


 俺は暴れた。

 ドラゴンの顎すらこじ開ける怪力で、彼女を引き剥がそうとした。

 だが、彼女の腕はミリ単位も動かない。


「よしよし、いい子ですね。怖がらなくていいんですよ」


 ノエルは俺の抵抗を、駄々っ子が甘えているとでも解釈したのか、俺の後頭部を優しく撫でた。


「貴方は今まで、一人で頑張りすぎました。辛かったでしょう? 痛かったでしょう? でも、もう大丈夫。これからは私が全部やってあげますから」


 彼女の言葉が、鼓膜ではなく、脳に直接染み渡ってくる。


(やめろ……入ってくるな……!)


 俺は必死に『精神耐性EX』を意識した。

 悪意を弾け。支配を拒絶しろ。俺の心は鋼鉄だ。誰にも侵入させない。


 ――しかし、スキルは発動しなかった。


 なぜだ。

 なぜ防げない。

 混乱する俺の脳内に、彼女の感情が濁流のように流れ込んでくる。


 ――愛してる。愛してる。可愛い。守りたい。

 ――貴方の全てが愛おしい。指先も、髪も、その怯えた心臓の音も。

 ――もう二度と、冷たい外の世界には出さない。


 それは攻撃ではなかった。

 洗脳でも、呪いでもない。

 純度100%、混じりっけなしの「善意」と「愛情」。

 俺の『精神耐性』は「害意ある攻撃」を防ぐための盾だ。彼女のような、慈愛の皮を被った暴力的なまでの好意は、敵として認識されないのだ。


 システム上のセキュリティホール。

 俺の最強の盾は、彼女の愛に対してはザルだった。


「あ……が……」


 視界が白く明滅する。

 脳が焼き切れるような感覚。

 彼女の重すぎる愛が、俺の自我を塗りつぶそうとしていく。


「眠りなさい、カナタ様。ここは世界で一番安全な場所。貴方を傷つけるものは何もない楽園です」


 ノエルの手が、俺のまぶたをそっと塞ぐ。

 抵抗する力はもう残っていなかった。

 膝から力が抜け、俺はその場に崩れ落ちる。

 彼女は倒れる俺を愛おしそうに抱き留め、膝枕をするように俺の頭を膝に乗せた。


「……私の、可愛い鳥さん」


 薄れゆく意識の中で、最後に見た光景。

 それは、閉じていたはずの彼女の瞳が、うっすらと開かれた瞬間だった。


 その瞳の奥には、底のない深淵のような闇と、狂気的なまでに歪んだ愛の光が渦巻いていた。


「一生、離してあげませんからね?」


 悠久の静寂を破った咎人は、こうして捕らえられた。

 無垢な足音は途絶え、二度と塔の外へ響くことはない。

 ここから始まるのは、甘い地獄のような飼育生活だ。

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