第4節 極寒の塔に眠るは夢見る天使かあるいは

 世界が白一色に染まっていく。

 北の果て、極寒の禁足地「ニブルヘイム」。

 そこは、あらゆる生命活動を拒絶する絶対零度の地獄だ。


 吹き荒れる猛吹雪は、ただの風ではない。触れた端から肉を凍らせ、骨まで砕く魔力を帯びた刃だ。

 だが、そんな死の世界を、俺はコートのポケットに手を突っ込み、鼻歌交じりで歩いていた。


「……寒いな。鼻水が凍りそうだ」


 そう呟く俺の鼻先は、確かに凍りつき、壊死しかけている。

 だが、その瞬間に『無限再生』が発動し、細胞を瑞々しい状態へと巻き戻す。

 凍結と再生。破壊と創造。

 俺の体の中では、秒単位で生死のサイクルが繰り返されているが、痛みはない。

 まるで、温かい部屋で「外は寒そうだな」と窓の外を眺めているような、奇妙な乖離感だけがあった。


 目の前には、天を衝く巨大な塔がそびえ立っている。

 黒曜石を削り出して作ったような、継ぎ目のない黒い巨塔。

 その表面には、見たこともない幾何学模様の紋様が刻まれ、青白い光を明滅させている。


 『極北の監獄塔』。

 あるいは、『星の墓標』。

 ギルドの資料によれば、ここは古代文明が「決して解き放ってはならない災厄」を封じるために建造した、世界最古の牢獄だという。


「災厄、ねえ……」


 俺は冷笑した。

 どんな怪物が封印されていようと関係ない。

 今の俺にとって、恐怖とは「過去の遺物」だ。

 俺は塔の入り口――巨大なアーチ状の門の前で足を止めた。

 扉はない。ただ、漆黒の闇が口を開けて、侵入者を待ち構えている。


 一歩、足を踏み入れた瞬間だった。


『――去れ』


 脳髄に直接響くような、重厚な念話。

 同時に、闇の中から巨大な守護者が姿を現した。

 全身が透き通るような氷でできた、身長五メートルを超える騎士。

 手には身の丈ほどの処刑鎌を握り、その兜の奥には、憎悪に燃える蒼い炎が揺らめいている。


 Sランクモンスター『氷獄の死神(グリム・リーパー)』。

 王都の精鋭騎士団が百人がかりで挑んでも全滅すると言われる、生ける伝説だ。


『此処は禁忌の地。人の子が踏み入れば、魂ごと永遠に凍てつくこととなる。……恐怖せよ、そして去れ』


 死神が鎌を振り上げる。

 その動作に合わせて、空間そのものが凍結し、逃げ場のないプレッシャーが俺に降り注ぐ。

 常人なら、この殺気だけで心臓が止まり、発狂死していただろう。


 けれど。


「うるさいな。客商売なら、もっと愛想よくできないのか?」


 俺はあくびを噛み殺しながら言った。

 死神の動きがピタリと止まる。

 兜の奥の炎が、困惑したように揺れたのがわかった。


『……何故だ? 何故、恐れぬ? 我は死だ。絶望だ。貴様の矮小な魂など、一睨みで砕けるはずの……』

「生憎だが、俺の心はもう砕けようがないんだよ。ブラック企業で粉々になった後、鋼鉄でコーティングしちまったからな」


 俺は地面を蹴った。

 凍りついた石畳が爆ぜる。

 死神が反応するよりも速く、俺は懐に潜り込み――そのみぞおちとおぼしき場所に、渾身の拳を叩き込んだ。


 ドゴォォォォンッ!!


 轟音と共に、氷の鎧が砕け散る。

 伝説の怪物は、たった一撃で粉々になり、美しいダイヤモンドダストとなって霧散した。


「……弱い」


 舞い散る氷の結晶の中で、俺は呟いた。

 高揚感はない。あるのは、期待外れの乾いた感情だけ。

 伝説の怪物ですら、今の俺の心拍数を一つも上げられない。

 俺は強くなりすぎたのだ。

 誰も俺を脅かせない。誰も俺を熱くさせてくれない。


(この塔の主も、所詮はこの程度か?)


 失望にも似た溜息を吐き、俺は塔の階段を登り始めた。



 螺旋階段を登るごとに、塔の様相が変わっていった。

 下層は冷たい石造りの牢獄だったが、上層へ行くにつれて、壁には美しいタペストリーが飾られ、床には真紅の絨毯が敷かれていた。

 まるで、高貴な王族の住まう宮殿のようだ。


 だが、不気味なのは「静寂」だ。

 モンスターはあの一体きり。罠もない。

 ただ、ひたすらに美しい調度品だけが、主の帰りを待つように静まり返っている。


 そして、最上階。

 俺は、巨大な両開きの扉の前に立っていた。

 白銀の金属で作られた扉には、翼を持った少女が、いばらに絡め取られて眠るレリーフが彫り込まれている。


「……ここか」


 扉の隙間から、甘い香りが漂ってくる。

 それは、極寒の地にはありえない、満開の花々の香り。

 そして、微かに聞こえる寝息のような音。


 俺の『精神耐性EX』が、わずかに反応した。

 警告ではない。違和感だ。

 ここには「悪意」がない。

 冒険者を殺そうとする殺意も、侵入者を拒む敵意もない。


 あるのは――もっと別の、質量を持った「何か」。

 暖かくて、柔らかくて、それでいて底なしの沼のような気配。


「いいだろう。見せてもらおうか、世界の災厄とやらを」


 俺は扉に手をかけた。

 重厚な扉は、意外なほど滑らかに、音もなく開いていく。


 溢れ出したのは、目も眩むような光と、圧倒的な花の香り。

 そこは牢獄ではなかった。

 天井まで届く本棚。色とりどりの花が咲き乱れる庭園のような空間。

 そして、その中心に置かれた、天蓋付きの巨大なベッド。


 俺は吸い込まれるように中へと足を踏み入れた。

 背後で、扉が静かに閉まる。

 カチャリ、と鍵がかかる音がした気がしたが、俺は振り返らなかった。


 視線の先にある存在に、心を奪われていたからだ。


 ベッドの中央。

 シルクのシーツに包まれて眠る、一人の少女。

 透き通るような白銀の髪。陶器のように白い肌。

 背中には小さな翼のような装飾があり、薄桃色のドレスを纏っている。


 美しい。

 今まで見てきたどんな貴族の令嬢も、聖女も、女神でさえも霞むほどの、完成された美貌。

 彼女は安らかに目を閉じ、幸せそうな夢を見ているように微笑んでいた。


「……これが、災厄?」


 拍子抜けした。

 こんな華奢な少女が、世界を滅ぼす魔物だというのか?

 俺は警戒心を解き、ベッドの傍らまで歩み寄った。


 彼女の寝顔を見下ろす。

 無防備だ。今、俺が剣を突き立てれば、彼女は痛みを感じる間もなく死ぬだろう。

 それが仕事だ。俺はそうするためにここへ来た。


 だが。

 俺の手は剣に伸びなかった。

 代わりに、何かに魅入られたように、彼女の頬へと手を伸ばしてしまった。


(触れてみたい)


 それは、孤独な王が初めて抱いた、純粋な興味だったのかもしれない。

 あるいは、この空間に満ちる甘い毒気に、既に当てられていたのかもしれない。


 俺の指先が、彼女の冷たくて柔らかい頬に触れる。


 ビクリ、と。

 少女の肩が震えた。


「……んっ……」


 吐息が漏れる。

 長い睫毛が震え、彼女がゆっくりと身じろぎをする。

 世界が息を止めたような静寂の中、衣擦れの音だけが響く。


 彼女はゆっくりと上体を起こし、俺の方へと顔を向けた。

 だが、その瞳は閉じられたままだ。

 閉じられた瞼の奥から、俺の魂の形を確かめるように、彼女は首を傾げた。


 そして。

 花が綻ぶように、優しく、愛おしそうに微笑んだ。


「――待っていましたよ」


 鈴を転がすような声。

 それは、俺が求めていた「強敵の咆哮」ではなかった。

 けれど、俺の『精神耐性EX』が、今まで一度も発したことのない警報を鳴り響かせた。


 逃げろ、と。

 これは戦って勝てる相手ではない、と。

 だが、もう遅い。

 俺の足は、泥沼に嵌ったように動かなかった。


「私の、運命の旦那様」


 彼女が、見えない瞳で俺を捕らえた。



 その瞬間、俺の孤独な冒険は終わりを告げた。

 これより始まるのは、英雄譚ではない。

 永遠に終わらない、甘い鳥籠の中の夢物語だ。

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