第2章 足場の向こう側
暗闘の中を、匠は落ち続けていた。
いや、落ちているのか、浮かんでいるのか、もはや判然としない。上も下もない。重力すら感じない。ただ、意識だけが、虚無の中を漂っている。
ここはどこだ。
俺は——死んだのか。
問いかけに答える声はない。沈黙が、全てを包み込んでいる。
やがて、暗闇の中に、ぼんやりと光が見え始めた。
最初は、蝋燭の炎ほどの大きさだった。それが、徐々に広がっていく。白い光。まぶしいほどではないが、温かい。
光の中に、映像が浮かび上がった。
匠は、自分の人生を見ていた。
幼い頃の記憶。
父の背中を追いかけている。現場へ向かう軽トラの助手席で、窓の外を流れる風景を眺めている。夏の日差し、木材の匂い、鉋屑の山。父が振り向いて、何か言っている。声は聞こえない。だが、口の形で分かった。
——見てろ、匠。
父の手が、木材の上を滑る。墨壺から糸を引き出し、ぴんと張って、弾く。真っ直ぐな墨の線が、木材の表面に刻まれる。
——これが墨付けだ。
父の手は、大きくて、節くれ立っていて、傷だらけだった。職人の手だ。匠は、その手に憧れていた。
中学生の頃の記憶。
匠は、学校の技術の授業で、木製の本棚を作っている。他の生徒が雑な仕事をする中、匠だけが黙々と、ミリ単位の精度で組み立てていく。教師が「時間内に終わらなくてもいいのか」と聞く。匠は首を横に振る。
——いい仕事がしたいんです。
教師は困った顔をした。だが、完成した本棚は、クラスで一番の出来だった。
高校卒業後の記憶。
父の下で、大工として修業を始めた。毎日、怒鳴られた。「遅い」「雑だ」「やり直せ」——父は厳しかった。だが、匠は諦めなかった。
ある日、初めて一人で壁の下地を組んだ。父が見に来て、黙ってレーザー水平器を当てた。完璧な水平だった。父は何も言わなかったが、その日の夕食の時、珍しく日本酒を出した。
——まあ、飲め。
それが、父からの最大の賛辞だった。
二十五歳の記憶。
父が死んだ日。
病院のベッドで、父は意識を取り戻さなかった。医師が「ご家族を呼んでください」と言った時、匠は一人だった。母は匠が十歳の時に病気で亡くなっている。兄弟はいない。親戚との付き合いもほとんどない。
最期の三日間、匠は父のそばにいた。
眠らなかった。食事もほとんど取らなかった。ただ、父の手を握っていた。
三日目の明け方、父が薄く目を開けた。
——……匠。
声は、かすれていた。
——お前は……不器用だから……。
それが、最後の言葉だった。
その直後、心電図がフラットになった。
匠は、父の手を握ったまま、泣いた。声を上げて、泣いた。
——親父。不器用だから、何なんだよ。
答えは、返ってこなかった。
二十七歳の記憶。
結婚した日。
区役所で婚姻届を出した後、二人でファミリーレストランに入った。高い店には行けなかった。彼女——美咲は、それでも笑っていた。
——匠さんと一緒なら、どこでも楽しいよ。
その言葉を、匠は信じていた。
三十歳の記憶。
離婚した日。
リビングのテーブルを挟んで、美咲が言った。
——あなたといると、将来が見えない。
匠は、何も言い返せなかった。
離婚届に判を押した。
引っ越し業者が来て、彼女の荷物を運び出した。
匠は、からっぽになった部屋で、一人で立っていた。
三十二歳。
今日。
足場から落ちた。
暗闘。
そして、今——
光が、さらに強くなった。
匠は、その光の中心に、人影を見た。
人影——いや、それは人間ではなかった。
形は人間に似ている。二本の腕、二本の脚、頭部。だが、輪郭が曖昧で、まるで光そのものが人の形を取っているかのようだった。
「——ようこそ、黒田匠」
声が響いた。
低くもなく、高くもない。男とも女とも判別できない、不思議な声。
匠は、声を絞り出した。
「……お前は、誰だ」
「私は、ファブリカ」
光の存在が、ゆっくりと腕を広げた。
「建築を司る神——そう呼ばれている」
建築を司る神。
荒唐無稽な言葉だ。普段の匠なら、一笑に付していただろう。だが、今の状況は、常識の埒外にあった。
「……俺は、死んだのか」
「肉体は、そうだね」
ファブリカは、淡々と答えた。
「七メートルの高さから、地面に頭部を打ちつけた。即死ではなかったが、脳への損傷が致命的だった。救急車が来る前に、心臓が止まった」
即死ではなかった。
その言葉が、妙に胸に残った。
苦しんだのだろうか、と匠は思った。自分の肉体は、最後の瞬間、何を感じていたのだろうか。
「なぜ、俺を呼んだ」
「呼んだのではない。導いたのだ」
ファブリカの光が、わずかに揺れた。
「私は、建築を愛する者を見守っている。千年に一度、あるいは数百年に一度——真に建築を愛する者が、この世界に現れる」
「……俺が、そうだと?」
「そうだ、黒田匠。お前は——不器用だが、誠実だ」
不器用。
その言葉に、匠の心臓——いや、心臓はもうないのか。それでも、何かが締め付けられるような感覚があった。
「お前は、手を抜くことを知らない。誰も見ていなくても、ミリ単位の精度にこだわる。一本一本、丁寧に組む。それが、お前の在り方だ」
「……」
「現代の世界では、それは評価されない。効率、工期、コスト——それだけが全てだ。お前のような職人は、搾取され、使い潰され、そして捨てられる」
ファブリカの声に、わずかな怒りが混じった。
「私は、それを許せない」
匠は、黙っていた。
「黒田匠。お前に、選択肢を与えよう」
ファブリカが、手を差し出した。
「このまま死を受け入れ、無に還るか。あるいは——」
光の中に、映像が浮かんだ。
見たことのない風景だった。緑の丘陵、石造りの城、中世ヨーロッパのような街並み。だが、空には二つの月が浮かんでいる。
「——別の世界で、新たな生を受けるか」
異世界。
その言葉が、脳裏に浮かんだ。
漫画やアニメで見たことがある。死んだ人間が、別の世界に転生するという物語。まさか、自分がその当事者になるとは。
「……俺を、そこへ送るのか」
「そうだ。この世界——エルドガルドには、建築の力が必要とされている」
映像が変わった。
燃え落ちる村。逃げ惑う人々。空を覆う黒い影——魔物の群れ。
「魔王と呼ばれる存在が、この世界を蹂躙しようとしている。人々は城壁の中に逃げ込んでいるが、その城壁は老朽化し、いつ崩れてもおかしくない」
ファブリカの声が、静かに響いた。
「この世界には、真の建築技術を持つ者がいない。だから、滅びようとしている」
「……俺に、何ができる」
「お前には、『神匠の指金』を授ける」
ファブリカの手から、光の粒子が立ち昇った。
それが、形を成していく。長方形の、L字型の道具——差し金だ。だが、普通の差し金ではない。刃の部分が、淡く発光している。
「これを使えば、あらゆる建造物の構造が『見える』。強度、欠陥、最適な補強方法——全てが、お前の目に映るようになる」
チート能力。
それもまた、異世界転生ものの定番だった。
「……なぜ、俺なんだ」
「先ほど言ったはずだ。お前は、建築を愛している。手を抜くことを知らない。それが、私がお前を選んだ理由だ」
ファブリカの光が、一瞬、強くなった。
「そして——お前には、まだ果たすべきことがある」
「果たすべきこと?」
「お前を殺した男——蛭間正臣」
その名前を聞いた瞬間、匠の中に、冷たい怒りが湧き上がった。
「彼もまた、あの事故で命を落とした。足場が崩落した時、下にいた彼も、巻き込まれたのだ」
「蛭間が……死んだ?」
「そうだ。そして——彼もまた、エルドガルドに転生する。ただし、お前とは別の場所に」
ファブリカの声が、低くなった。
「蛭間正臣は、敵国——ヴァルム帝国の宮廷に転生する。そして、彼もまた、建築の力を手に入れる」
敵国。
建築の力。
「……どういうことだ」
「私が選んだのは、お前だけではない。別の神が、蛭間を選んだのだ」
ファブリカの光が、わずかに翳った。
「エルドガルドには、私以外にも神々がいる。中には、人間の苦しみを楽しむ者もいる。蛭間を選んだのは、そういった神の一柱だ」
「……」
「黒田匠。お前は、蛭間と再び対峙することになる。今度は、建築という戦場で」
匠は、拳を握りしめた。
蛭間。
あの男のせいで、自分は死んだ。安全帯を外せと命じたのは、蛭間だ。踏板の固定が甘かったのは、蛭間が手抜き工事を黙認していたからだ。
「——行く」
匠は、即答した。
「俺を、その世界に送ってくれ」
ファブリカの光が、まぶしく輝いた。
「よく言った、黒田匠」
光が、匠を包み込む。
「お前の建築が、世界を救うことを——私は信じている」
視界が、白く染まっていく。
最後に、匠は父の顔を思い出した。
親父、と匠は心の中で呟いた。
俺、まだ大工やれるみたいだ。
次の瞬間、匠の意識は、光の中に消えた。
目を開けた。
最初に感じたのは、土の匂いだった。
湿った土、焼けた木、そして——血の匂い。
匠は、仰向けに倒れていた。視界に広がるのは、灰色の空。だが、その空は、匠の知っているものとは違った。
空に、月が二つ浮かんでいる。
一つは白く、一つは薄い青色。どちらも、地球から見る月よりも大きい。
ここは——異世界か。
匠は、ゆっくりと身体を起こした。
身体は無傷だった。落下の衝撃も、痛みも、何もない。服装は、さっきまで着ていた作業着——ではなく、粗末な麻の衣服に変わっていた。
周囲を見回す。
廃墟だった。
焼け落ちた家屋、崩れた石壁、散乱する生活用品。かつて村だったであろう場所が、完全に破壊されていた。
そして——死体。
焼け焦げた死体が、あちこちに転がっている。人間の死体だ。男も、女も、子供も。
匠は、吐き気を催した。
だが、嘔吐する前に、それは収まった。嗅覚が、麻痺したのだろうか。
「——誰か、いるのか?」
匠は、声を上げた。
返事はない。
立ち上がり、廃墟の中を歩く。どこもかしこも、破壊の痕跡だらけだ。
これは、戦争の跡なのか。
それとも——
「——あっ」
小さな悲鳴が聞こえた。
匠は、反射的にそちらを向いた。
崩れた家屋の影に、人影があった。
子供だ。十歳くらいの、痩せた少年。汚れた服を着て、怯えた目で匠を見ている。
「待ってくれ。俺は——」
匠が近づこうとした瞬間、別の声が響いた。
「動くな」
背後からだ。
匠は、動きを止めた。
振り返ると、若い女が立っていた。十六、七歳くらいだろうか。亜麻色の長い髪、緑色の瞳。痩せてはいるが、意志の強そうな顔立ちだ。
そして、その手には——弓が握られている。矢は、匠の胸を狙っている。
「お前は誰だ。魔王軍の者か」
魔王軍。
ファブリカが言っていた。魔王と呼ばれる存在が、この世界を蹂躙しようとしている、と。
「違う。俺は——」
何と説明すればいいのか。異世界から来た、などと言っても信じてもらえないだろう。
「俺は、旅人だ。この村に来たら、こうなっていた」
嘘ではない。事実の一部だけを言っているだけだ。
女は、弓を下ろさなかった。疑わしそうな目で、匠を見ている。
「お前……変な服を着ているな」
「……これか」
匠は、自分の服を見下ろした。確かに、異世界の基準では「変な服」なのだろう。麻の衣服と言っても、デザインは明らかに日本の作業着に似ていた。
「遠い国から来た。この国とは、文化が違うんだ」
苦しい言い訳だった。だが、他に言いようがない。
女は、しばらく匠を睨んでいたが、やがて弓を下ろした。
「……まあいい。お前が敵なら、武器を持っているはずだ」
確かに、匠は武器を持っていない。徒手空拳だ。
「私はリーネ。この村——ハルベルト村の村長の孫だ」
「黒田匠だ。……匠と呼んでくれ」
「タクミ? 変わった名前だな」
リーネは、弓を背負い直した。
「この村は三日前に襲われた。魔王軍の魔獣の群れに」
魔獣。
ファブリカの映像で見た、あの黒い影のことだろうか。
「生き残りは、私と、子供たち数人と、怪我をした兵士が何人か。全部で十五人ほどだ」
「十五人……」
村の規模から見て、元々は数百人はいたはずだ。その中で、生き残ったのがたったの十五人。
「食料は、焼け残った貯蔵庫から少し。でも、長くは持たない。近くの村に助けを求めに行った者がいるが、まだ戻ってこない」
リーネの声は、淡々としていた。だが、その目の奥には、深い疲労と絶望が滲んでいる。
「リーネ」
匠は、彼女の名を呼んだ。
「この村の、まだ使える建物はあるか」
「建物?」
「ああ。壁が残っているところ、屋根が残っているところ。どこでもいい」
リーネは、怪訝そうな顔をした。
「そんなもの、何に使う?」
「俺は——」
匠は、一瞬、言葉を探した。
そして、腰に手を当てた。
そこには、いつの間にか、道具袋が下がっていた。
中には、墨壺、差し金、ノミ、小刀——基本的な大工道具が揃っている。そして、一つだけ、見慣れないものがあった。
淡く発光する、L字型の道具。
神匠の指金。
匠は、それを手に取った。
途端、視界が変わった。
周囲の廃墟が、透視されたかのように見える。崩れた壁の中に、まだ使える石材がある。焼けた家屋の中に、芯まで燃えていない木材がある。地面の下に、硬い岩盤がある——その上に建てれば、基礎は安定する。
全てが、「見えた」。
「俺は——大工だ」
匠は、リーネに向き直った。
「建物を直せる。屋根を張り直せる。壁を補強できる。それが、俺の仕事だ」
リーネの目が、わずかに見開かれた。
「……本当か?」
「ああ。だから——案内してくれ。まず、雨風をしのげる場所を作る」
匠は、廃墟を見渡した。
異世界だろうと、やることは同じだ。
一本一本、丁寧に。
それが、黒田匠の、生きる道だった。
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大工×異世界転生_墨壺と異世界~追放された底辺大工、神の指金(さしがね)で王国を建てる~ もしもノベリスト @moshimo_novelist
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