大工×異世界転生_墨壺と異世界~追放された底辺大工、神の指金(さしがね)で王国を建てる~
もしもノベリスト
第1章 墨壺の男
午前四時五十三分。
目覚まし時計が鳴る七分前に、黒田匠の意識は暗闘の底から浮上した。
六畳一間のアパートの天井には、かすかな水染みがある。去年の台風で雨漏りした痕だ。大家に言えば直してもらえるのだろうが、匠はそれをしなかった。自分で直せる。直せるのに、他人に頼むのが性に合わない。結局、休日に防水テープとコーキング剤で応急処置を施し、それきりになっている。
布団から這い出る。腰が軋んだ。三十二歳の身体は、すでに職業病の巣窟だった。
台所で湯を沸かす。インスタントコーヒーの粉をマグカップに入れ、湯を注ぐ。砂糖もミルクも入れない。そんな余裕のある朝を、匠は何年も過ごしていない。
冷蔵庫を開ける。昨夜コンビニで買った塩鮭弁当の残りと、賞味期限が二日過ぎた食パン。食パンをトースターに放り込み、鮭をレンジで温める。
窓の外はまだ暗い。十一月の夜明けは遅い。
匠は食事を終えると、作業着に着替えた。色褪せたカーキ色のニッカポッカに、同じく色褪せた紺色の長袖シャツ。安全靴は玄関に置いてある。ヘルメットと安全帯は軽トラックの助手席だ。
洗面台で顔を洗う。鏡に映る自分の顔を、匠は好きではなかった。無精髭、くぼんだ目、土気色の肌。若い頃は「渋い」と言われたこともある顔立ちも、今では単なる疲れた中年男のそれだ。
歯を磨きながら、今日の段取りを頭の中で組み立てる。
現場は市内の新築住宅。木造二階建て、延べ床面積百十平米ほどの、ごく標準的な戸建てだ。今日の作業は二階の床組み。根太を並べ、構造用合板を敷く。地味だが、家の水平を決める重要な工程だ。
一人親方として独立して五年。匠は主に、大手ハウスメーカーの下請け工務店から仕事をもらっていた。元請け、下請け、孫請け。建設業界の多重構造の最底辺で、彼は日銭を稼いでいる。
五時二十分、アパートを出る。
駐車場に停めた軽トラックは、十二年落ちの中古車だ。走行距離は二十万キロを超えている。エンジンをかけると、くぐもった音が夜明け前の静寂を破った。
荷台には、丸ノコ、インパクトドライバー、金槌、ノミ、カンナ、墨壺、差し金、水平器、コンベックス——大工道具一式が、それぞれの定位置に収まっている。道具は身体の延長だ。どこに何があるか、暗闘の中でも手が覚えている。
特に、墨壺と差し金。
この二つは、親父の形見だった。
黒田の家は三代続く大工の家系だった。祖父は宮大工として神社仏閣の修繕に携わり、父は町場の大工として数えきれないほどの家を建てた。匠は物心ついた頃から、木の匂いと、鉋屑と、墨の染みに囲まれて育った。
父が死んだのは、匠が二十五歳の時だ。現場で足を滑らせ、二階の床から転落した。頭を強く打ち、三日後に息を引き取った。
「匠、お前は不器用だから」
それが、父の最後の言葉だった。
不器用。
その言葉が、七年経った今も、匠の胸に刺さっている。
確かに自分は不器用だと思う。要領が悪い。人付き合いが下手だ。同じ仕事をしても、他の職人より時間がかかる。
だが、手を抜くことだけはしなかった。
一本一本、丁寧に。ミリ単位の精度にこだわる。それが匠の信条であり、父から受け継いだ唯一の遺産だった。
軽トラックは夜明け前の国道を走る。信号は点滅に切り替わっており、交通量はほとんどない。ラジオからは天気予報が流れている。今日は晴れ、最高気温十五度、降水確率十パーセント。屋外作業には最適な日和だ。
現場に着いたのは五時四十五分。まだ誰もいない。
匠は軽トラを敷地の隅に停め、荷台から道具箱を下ろした。現場事務所のプレハブ小屋に入り、出勤簿に名前を書く。「黒田匠」。その横に時刻を記入する。
一人親方には、タイムカードも有給休暇もない。病気で休めば収入はゼロになる。労災保険は自分で特別加入しているが、月々の支払いが地味に痛い。国民健康保険、国民年金、住民税、所得税——経費を引いた後の手取りは、同年代のサラリーマンの半分にも満たないだろう。
それでも、匠はこの仕事を辞めようと思ったことはない。
木に触れている時だけ、自分が自分でいられる気がした。
現場事務所で図面を確認する。二階伏図、矩計図、詳細図。すでに何度も見た図面だが、毎朝必ず確認する。現場は生き物だ。図面通りにいかないことの方が多い。
六時を過ぎると、他の職人たちがぽつぽつと集まり始めた。
「おう、黒田さん。早いっすね」
声をかけてきたのは、電気工事の親方だ。五十代半ば、恰幅のいい男で、現場では「デンさん」と呼ばれている。
「ええ、まあ」
匠は曖昧に頷いた。世間話は苦手だ。何を話していいかわからない。
「今日、監督来るらしいっすよ」
「……監督?」
「ほら、蛭間さん。元請けの」
その名前を聞いた瞬間、匠の胃がきゅっと縮んだ。
蛭間正臣。
大手ハウスメーカーの現場監督で、この現場の責任者だ。四十代前半、痩せぎすの身体に、常に苛立ったような目をした男。匠が最も苦手とする人種だった。
「何しに来るんですか」
「さあ。定期巡回じゃないっすか。最近、工期遅れ気味だから、ケツ叩きに来るんでしょ」
工期遅れ。それは匠のせいではない。先週、基礎屋が工程を押したのだ。しかし、現場監督にとって、遅れの理由など関係ない。遅れているという事実だけが問題になる。
六時半、朝礼が始まった。
現場責任者を務める下請け工務店の親方が、今日の作業内容と注意事項を読み上げる。匠は列の端に立ち、黙って聞いていた。
「——以上。では、本日も安全作業で。ご安全に」
「「ご安全に」」
唱和の声が響き、職人たちは散っていく。
匠は二階へ上がった。昨日、自分が敷いた根太の列が、朝日を浴びて影を落としている。
水平器を取り出し、確認する。完璧だ。一ミリの狂いもない。
こういう時だけ、匠は自分を許せた。
作業を開始する。構造用合板を運び、所定の位置に並べていく。一枚の合板は約二十キロ。それを一人で持ち上げ、正確な位置に置く。位置が決まったら、釘を打つ。
釘打ち機の乾いた音が、冬枯れの空に響いた。
二時間ほど作業を続けた頃、背後に気配を感じた。
「黒田」
振り返ると、蛭間が立っていた。紺色のスーツに黄色いヘルメット。現場監督の正装だ。
「お疲れ様です」
匠は会釈した。蛭間は返事をしない。じろじろと床を見回し、匠の仕事を検分している。
「遅いな」
「は?」
「お前の仕事は遅いと言っているんだ。この程度の面積、普通なら午前中に終わるだろう」
匠は奥歯を噛み締めた。確かに、他の大工なら午前中に終わるかもしれない。だが、匠のやり方は違う。一枚一枚、水平を確認しながら敷いていく。釘のピッチも、規定より細かく打つ。それが匠の流儀だった。
「精度を出すには、時間がかかります」
「精度?」
蛭間の口元が歪んだ。
「いいか、黒田。お前の『精度』とやらに、客は一円も払わない。求められているのは、工期通りに、予算通りに仕上げることだ。それ以上でも以下でもない」
「……」
「分かったら、手を動かせ。代わりはいくらでもいるんだ」
吐き捨てるように言って、蛭間は去っていった。
匠は立ち尽くした。握った釘打ち機のグリップが、汗で滑る。
代わりはいくらでもいる。
その言葉が、錆びた釘のように胸に刺さった。
自分の仕事に誇りを持っている。いい仕事をしていると思っている。だが、それを認めてくれる人間は、この業界にはほとんどいない。
工期。予算。効率。
それだけが全てだ。
職人の矜持など、誰も求めていない。
昼休憩。匠は現場事務所の隅で、コンビニで買った菓子パンをかじっていた。他の職人たちは輪になって弁当を食べている。匠はそこに入っていけない。入っていく気もない。
スマートフォンを取り出し、銀行口座の残高を確認する。
十二万円。
今月の請求書を出せば、来月末には入金がある。そこから材料費、工具の消耗品費、軽トラの維持費、ガソリン代を引く。さらに国保、年金、住民税。残るのは、生活費ギリギリの金額だ。
インボイス制度が始まってから、手取りはさらに減った。免税事業者のままでいれば取引を切られる。課税事業者になれば、消費税分が持ち出しになる。どちらに転んでも、損をするのは末端の職人だ。
確定申告の時期が近づいている。今年の分の帳簿をつけなければならないが、夜は疲れて頭が回らない。去年は、申告期限ギリギリになって徹夜で領収書を整理した。今年も同じことになるだろう。
ふと、元妻のことを思い出した。
結婚していたのは三年間だけだ。建築会社の事務員だった彼女と出会い、交際一年で結婚した。しかし、匠の収入は安定せず、休日も現場に出ることが多かった。「あなたといると、将来が見えない」——そう言われて、離婚届に判を押したのは二年前のことだ。
子供はいない。
今となっては、それが救いだと思う。
午後の作業を再開する。
床の合板敷きは、予想通り午後までかかった。蛭間の言葉が頭にこびりついていたが、匠は手を抜かなかった。抜けなかった。
父の墨壺が、腰袋の中で揺れている。
親父。
お前は不器用だから——その言葉の真意を、匠は今も測りかねている。
批判だったのか。それとも、何か別の意味があったのか。
もう聞くことはできない。
夕方五時、作業終了。道具を軽トラに積み込み、現場を後にする。帰りのラジオでは、どこかの会社が過労死で訴えられたというニュースが流れていた。他人事ではない、と匠は思った。
アパートに着いたのは六時過ぎ。
玄関を開けると、暗い部屋の匂いが鼻をついた。人の気配のない部屋の匂いだ。
靴を脱ぎ、作業着のままソファに倒れ込む。腰が痛い。肩も痛い。膝も痛い。三十二歳で、身体は五十代のようだ。
このまま眠ってしまいたかったが、やるべきことがあった。
匠はテーブルに向かい、ノートパソコンを開いた。今月分の請求書を作成しなければならない。
下請け工務店への請求書。作業日数、単価、合計金額。消費税。インボイス登録番号。
Excelの表に数字を打ち込んでいく。慣れない作業だ。大工の腕には自信があるが、事務仕事は苦手だった。
請求書を作り終えたのは、八時を過ぎてからだった。
冷蔵庫を開ける。卵と、萎びたキャベツ。それだけだ。
キャベツを刻んで卵と炒め、醤油をかけて食べる。米を炊く気力はなかった。
食後、風呂に入る。狭いユニットバスの湯船に身体を沈めると、一日の疲れがじわりと滲み出る。
腰をさする。ここ数年、慢性的な痛みが取れない。整形外科に行けば、たぶん「椎間板ヘルニア」だと言われるだろう。だが、行く時間がない。行く金もない。
風呂から上がり、缶ビールを一本だけ飲む。
明日も現場だ。同じ時間に起き、同じ道を通り、同じ作業をする。その繰り返し。
いつまで続くのだろう、と匠は思った。
この生活が。
この仕事が。
この身体が。
十年後、自分はどうなっているのだろう。
考えても仕方のないことだった。今日を生きるので精一杯だ。明日のことは、明日考える。
缶ビールを飲み干し、匠は布団に入った。
墨壺が、道具箱の中で眠っている。
明日もまた、それを腰に下げて現場に向かう。
一本一本、丁寧に。
それだけが、黒田匠という男の、生きている証だった。
翌朝も、同じ時間に目が覚めた。
同じように湯を沸かし、同じようにインスタントコーヒーを飲む。同じ作業着に着替え、同じ軽トラに乗り込む。
現場に着くと、蛭間の車が停まっていた。
嫌な予感がした。
事務所に入ると、蛭間が待ち構えていた。
「黒田。ちょうどいい、話がある」
「……何でしょうか」
「今日から、足場の組み替えをやってもらう。二階の外壁工事に入るから、現状の足場じゃ作業しづらいらしい」
「足場?」
匠は眉をひそめた。足場の組み替えは、普通は鳶職の仕事だ。大工の領分ではない。
「鳶は別の現場に入ってる。人が足りない。お前、経験あるだろう」
「……多少は」
「なら、やれ。追加の手間は払う」
蛭間は有無を言わさぬ口調だった。匠に拒否権はない。仕事を断れば、次から声がかからなくなる。
「分かりました」
「よし。じゃあ、早速始めろ」
朝礼が終わり、匠は足場に向かった。
この現場の足場は、ビケ足場と呼ばれるタイプだ。鉄パイプと金具を組み合わせて立ち上げる、最も一般的な足場システム。匠も若い頃、職業訓練で基本は学んでいた。
ヘルメットを被り、安全帯を装着する。
安全帯のフックを引っかける場所——それを「親綱」と呼ぶ。高所作業では、常に親綱にフックをかけておくのが鉄則だ。
匠は足場に上がり、作業を開始した。
鉄パイプは冷たく、重い。手袋越しでも、金属の冷たさが伝わってくる。一本一本、所定の位置にセットし、クランプで固定していく。
地味な作業だ。だが、手を抜けば人が死ぬ。足場の崩落事故は、建設現場で最も多い死亡事故の原因だ。
二時間ほど作業を続けた頃、蛭間が下から声をかけてきた。
「黒田! もっと急げ! 外壁屋が待ってるぞ!」
「今やってます」
「遅い! 親綱なんかいちいち移動させなくていい! そのまま動け!」
匠の手が止まった。
親綱を移動させないということは、安全帯のフックを外したまま作業しろということだ。高さは地上から約七メートル。落ちれば、確実に重傷——最悪、死ぬ。
「それは——」
「ごちゃごちゃ言うな! 時間がないんだ!」
蛭間は怒鳴り、その場を離れていった。
匠は足場の上に立ち尽くした。
親綱を外せば、作業は確かに速くなる。だが、危険だ。違法でもある。安全衛生法では、高さ二メートル以上の作業では安全帯の使用が義務付けられている。
しかし——
代わりはいくらでもいる。
その言葉が、脳裏をよぎった。
ここで逆らえば、仕事を切られる。そうなれば、来月の家賃も払えなくなる。
匠は、安全帯のフックを外した。
足場の上を、フック無しで移動する。
風が吹くと、足元がぐらつく。冷や汗が背中を伝った。
それでも、作業を続けた。
一時間後、事故が起きた。
足場の端で、匠は鉄パイプを持ち上げようとした。
その瞬間、足元の踏板がずれた。
いや——ずれたのではない。最初から、固定が甘かったのだ。
本来なら、踏板はクランプで確実に固定されていなければならない。だが、この現場の足場は、どこかの段階で手抜き工事がされていた。匠が上る前から、その踏板は浮いていたのだ。
踏板が傾き、匠の身体が投げ出された。
反射的に手を伸ばした。指先が鉄パイプを掴む。
だが、握力が足りなかった。冬の寒さで、指がかじかんでいた。
指が、滑った。
落ちる——
七メートルの高さを、匠の身体は自由落下した。
時間が、引き伸ばされる。
視界が、ゆっくりと回転する。
灰色の空、足場の鉄パイプ、作業着の職人たち、蛭間の驚いた顔——
親父。
匠は、父のことを思い出していた。
親父も、こうやって落ちたのだろうか。
この空を、見たのだろうか。
——お前は不器用だから。
その声が、どこかから聞こえた気がした。
そして、匠の意識は、暗闘に沈んだ。
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