第三話:名無しの熱
男は、沈黙の中で自らの内を凝視した。
意識の深淵、ひび割れた器の底に、泥に塗れてなお輝きを失わぬ文字の断片。
かつて誰かが慈しみを持って呼び、彼自身が『私』であることを証明していた、ただ一つの固有名。
彼は、迷わなかった。
震える指先で、聖女の冷たい手のひらにその「文字」を書き記す。
――ガリ、と。
脳を直接削り取られるような、不快な衝撃が走った。
言葉が、急速に意味を失っていく。数秒前まで確かに胸に宿っていた愛着は、ただの無機質な音の羅列へと変わり、そして意識の彼方へと霧散した。
今、この世界に『彼』を定義する言葉はなくなった。
残されたのは、己を縛る呪いを焼き払う、猛烈な『熱』だけだ。
男が立ち上がると、右腕を覆っていた赤黒い『錆』が、内側から噴き出す熱量によって剥がれ、火花となって弾け飛んだ。
失った記憶の重さに比例するように、筋繊維には過剰なまでの活力が満ち、思考から雑音が消えていく。
「……ああ、なんと空虚で、美しい。これほどまでに澄んだ『器』に出会えたのは、いつ以来でしょう」
聖女の吐息まじりの声。
それは慈悲というより、極上の供物を前にした飢えた者の歓喜に近い色が混じっていた。
男はその声にさえ反応せず、振り返ることなく礼拝堂を後にした。
霧の広場では、あの鉄の檻が、先ほどと変わらぬ醜悪な姿で立ち塞がっていた。
巨大な鉄塊を引き摺り、石畳を削る不快な音が響く。だが、今の男にとって、その威圧感はただの無意味な情報に過ぎなかった。
騎士が咆哮し、鉄塊を振り下ろす。
男はそれを、紙一重でかわすのではない。最小限の動きで、そこに死が生じる未来を「見切り」、その死角へと一歩踏み込んだ。
石畳が爆ぜる音より早く、男の剣が唸りを上げた。
聖女に焚べた名の熱が、鋼の刃を白熱させ、虚空を切り裂く。
一撃。
先ほどまでは弾かれたはずの重厚な鎧が、焼けたナイフでバターを斬るように容易く両断された。
騎士の巨躯が、衝撃でくの字に折れ曲がる。
男は攻撃の手を緩めない。二撃、三撃。
もはやそれは剣戟というより、壊れた歯車を叩き潰すような、機械的な破壊の反復だった。
騎士が呻きを上げ、膝をつく。
鎧の隙間から溢れ出す黒い煙を浴びながら、男はトドメの一突きを、騎士の暗い面へと無慈悲に突き立てた。
――。
広場に、再び灰が降り積もる音が戻った。
鉄塊の主だったものは煤へと崩れ、ただの空虚な抜け殻がそこに転がっている。
男は、返り血を拭うことさえ忘れ、剣を鞘に収めた。
勝利の味はない。ただ、己の内で燃え盛る熱が、燃料となった名前を焼き尽くし、冷めていく感覚だけが残った。
ふと、自分を呼び止める声があったような気がして、彼は立ち止まる。
それは温かく、懐かしい響きを伴っていたはずだった。
だが、その声が何と呼んだのか。そもそも自分が何と呼ばれていたのかさえ、もう分からない。
「……さあ、次の薪を探しに」
背後で聖女が囁いた気がしたが、それさえも確信が持てない。
名前を持たぬ錆び人に許されたのは、ただ出口へと歩むことだけだ。男は、霧の晴れた先に見える黒い塔へと、重い一歩を踏み出した。
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灰白の牢に、錆は降る 鳴芽明 @narmeachan
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