#2 逃げ場のない恐怖
夜の静寂を切り裂いて、階下で硝子が砕ける音が重なる。
それは、一人や二人の侵入者が出せる音ではなかった。
まるで、この旅館自体が外側からゆっくりと噛み砕かれているような、
暴力的な破壊の響きだった。
「……うそ、でしょ」
那奈花の声が、恐怖で上ずっている。
彼女の手の中で、さっき男を仕留めた金属の三脚が、
ガタガタと音を立てて震えていた。
ミシリ、ミシリと、階段が悲鳴を上げている。
複数の影が、一歩ずつ、確実にこの二階へと這い上がってこようとしていた。
「那奈花、しっかりしろ!」
僕は彼女の肩を強く揺さぶった。
奴らはすぐに、この部屋の前に到着する。
もう、この部屋は安全な避難所ではない。
「先輩、さっきみたいなのが何人も来たら……あたし、あたし……」
完全に気が動転しているようだ。
先ほどまで爛々と光っていた瞳は、虚ろで、力をなくしていた。
僕が抱えて逃げるしかないか……。
正面玄関は無理だ。
そもそもあのゾンビみたいな化け物が、階段まで迫っている。
じゃあどうするか……。
ここは二階だ。
そこまで高いとは思えない、飛び降りることも不可能ではないはずだ。
僕は震える手で窓のサッシに手をかけた。
だが、窓の外に広がる闇を見た瞬間、僕は息を止めた。
街灯の明かりの下、
旅館の入り口付近を、
ゆらゆらと揺れる無数の人影が埋め尽くしていた。
「そうだ……」
僕は三脚を那奈花の脇に抱え込ませて、強引に抱き上げた。
こいつが小柄で助かった……。
この旅館には、星空観察のために作られた、屋上があったはず。
予約の時に、そこに上るための梯子があると……確か話していた。
「那奈花、いいか。三脚だけは絶対に離すなよ。武器がなくなったら、二人とも終わりだ」
腕の中の那奈花は、小さく震えながら、血に濡れた三脚を抱きしめるように握りしめた。
僕はバリケードを蹴り飛ばし、引き戸を一気に開け放った。
廊下に飛び出した瞬間、…左手の階段を上り切った影と、濁った眼球がこちらを捉えた。
幸い、動きはそこまで速くない。
僕は那奈花を抱えたまま、とにかく避けるように廊下の奥へ走った。
腐敗した肉の嫌な臭いが鼻孔を刺激したが、
今はそんなことを気にしていられる状況ではない。
「どこだ、どこだ……」
階段の方からは二体、三体と這い上がってくる影が見える。
廊下の突き当りまできた。
しかし、そこには壁しかない。
「……先輩、天井」
那奈花が天を指さした。
そこには四角い切れ目と、一本の紐がぶら下がっていた。
だが、本来あるはずの「梯子を下ろすための棒」が見当たらない。
それどころか、引っ張るための輪っかさえもちぎり取られ、
ただの短い紐が虚しく垂れ下がっている。
……どうする。
「那奈花、肩車だ。できるか?」
「……や、やってみます」
那奈花を一旦床に下ろし、僕は背後を振り返る。
階段からの集団が、飢えた獣のような速度でこちらへ迫ってきていた。
「んしょっと……。 せ、先輩! 紐が、紐に手が届きません!」
肩に乗った那奈花が必死に手を伸ばすが、
ちぎられた紐の先は無情にも数センチ上で踊っている。
「……くそ、誰がこんな、嫌がらせみたいなこと……!」
僕は那奈花の腰あたりを掴み、力任せに持ち上げた。
「俺の肩を踏み台にするんだ。 天井の蓋をこじ開けろ!」
背後数メートル。
ゾンビたちがそこまで迫っていた。
◆
那奈花の足が僕の肩を蹴り、彼女の体が天井へと吸い込まれていく。
「開いたっ!」
ガコン、という重い音とともに、天井の蓋が押し上げられた。
上からバサリと梯子が降りてくる。
「先輩、早く!」
僕は梯子に飛びついた。
その瞬間、ふくらはぎに冷たく、異常に強い力がかかった。
見下ろすと、階段から先頭で走ってきた ゾンビの指が、異様な力で僕のズボンの裾を掴んでいる。
「くそっ、離せ!」
僕はもう片方の足で奴の頭を蹴りつけ、無理やり梯子を駆け上がった。
そのまま屋上へと滑り込み、重いハッチを力任せに閉める。
ハッチの向こう側から、何種類もの呻き声が響いている。
那奈花が抱えていた三脚が、コンクリートの上でカランと乾いた音を立てた。
僕は激しい動悸を抑えながら、屋上の冷たいコンクリートに背中を預ける。
「……助かった、のか?」
荒い呼吸を整えながら、顔を上げる。
傍らでは那奈花が、放り出した三脚の横で胸を押さえ、必死に酸素を求めていた。
ふと見上げた夜空には、街灯の少なさが幸いしてか、
皮肉なほどに美しい満天の星空が広がっていた。
2026年、僕たちが一生の思い出にするはずだった最高の夏。
だが、視線を下ろした先、温泉街の光景に僕は戦慄した。
「……なんだよ、これ」
まばらに点る街灯の下を、無数の「影」が音もなく蠢いている。
それはまるで、死者の大行進だった。
ある者は片足を引きずり、ある者は力なく首を垂れ、ただ生存者の匂いを求めて徘徊している。
逃げ惑う人の姿はどこにもない。
風の音と、
奴らがコンクリートを擦る不快な足音だけが、高台のここまで這い上がってくる。
隣で同じ光景を見ていた那奈花が、息を呑む。
「……どうなってるんですか、これ」
「さあ、な。 悪夢を見ているだけだといいんだけど……」
彼女の瞳には、星空ではなく、地の底で蠢く影の姿が映り込んでいた。
那奈花はポケットからスマートフォンを引っ張り出す。
画面が明るくなり、
アンテナは……一本だけ立っている。
「繋がる……! 先輩、ネット繋がりますよ!」
縋り付くように開いたSNSのタイムライン。
そこに表示されたのは、たった数件の、しかし決定的な「世界の終わり」だった。
画面の中で、東京のスクランブル交差点が、燃え盛る車と血塗れの群衆で埋め尽くされている。
投稿時間は三十分前。
添えられた一言は、『もうどこにも逃げ場がない』という、まるで諦念したかのような呟きだけだった。
「……これ、渋谷? なんで、こんな……」
那奈花が次の情報を得ようと画面をスクロールした、その時だった。
画面の端に表示されていた一本のアンテナが消え、無慈悲に『圏外』の文字に変わった。
何度リロードしても、ブラウザは『インターネットに接続されていません』というエラーを吐き出すだけ。
「先輩、電波が……消えちゃいました」
「街の明かりが消えたんだ。 管理する人間がいなくなったインフラから順番に、死んでいくんだよ……」
現代人の命綱だったはずの板切れは、ただの光るプラスチックの塊に成り下がった。
100%だった充電の数字だけが、
僕たちの残り時間をカウントダウンしているかのように、
静かに夜の闇を照らしていた。
天文部ゾンビサバイバル ~終末世界を二人で生きていく~ @okamuramyao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。天文部ゾンビサバイバル ~終末世界を二人で生きていく~の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます