天文部ゾンビサバイバル ~終末世界を二人で生きていく~
@okamuramyao
#1 誰もいない旅館
2026年の夏。
僕と
星がよく見える場所だと聞いて、
たまたま空いていた宿を取っただけだ。
二人しか部員のいない、弱小の天文部の合宿という名目で。
一泊二日の、軽い予定だった。
まさか、それが地獄の始まりになってしまうとは……。
あの頃の僕たちには、想像することすらできなかった。
◆
目的地までは、最寄りの駅からタクシーで三十数分程度。
早めに到着する予定だったが、旅館に着いたのは、夕方だった。
道中で、那奈花がラーメンを食べたがったからだ。
街を抜けてからしばらく、車はほとんど見かけなかった。
細い山道を登りきった先に、その旅館は建っていた。
古いが、どこか落ち着いた佇まいだ。
そして、妙なほどに人の気配がなかった。
「あたし達以外、誰もいませんね」
「本当だな。 車は停まってるのに、どうしてこんなに人の気配がないんだ?」
玄関の引き戸を開けると、畳の匂いがした。
冷房は入っていないが、外よりはずっと涼しい。
帳場の奥から、鈴の音が微かに聞こえる。
「でもいいじゃないですか、貸切かもしれませんよ? 古いですけど、趣のある建物ですし」
「そうだな、子連れとかで騒がしいよりは、これくらい静かな方がいいか。 Wi-Fiが飛んでるかが僕にとっちゃ重要なんだが……」
「こんな時までスマホですか、画面よりも現実を見ないと」
「現代人の悲しいサガなんだよ」
受付には誰もいなかった。
そういえば予約の電話をしたときに、無人で運営していると言っていたっけ。
カウンターに置いてある南京錠付きのボックスに、暗証番号を入力してセルフで取るスタイルなのだ。
宿帳には、今日の日付で書かれた名前が僕たち以外に三つあった。
どれも、チェックアウトの欄は空白のままだ。
それを見て、少しだけ不思議に思ったが、深く考えはしなかった。
客室は二階。
廊下は長く、歩くと床が静かに鳴る。
エレベーターの類いはなく、二階建ての建物だからそりゃそうか。
「なんか本当、随分と年季が入っていますね。 幽霊とか出そうな感じです」
「あぁ、かなりボロいな」
「あたしが気を使ったのに、台無しにしないでください」
部屋に入ると、窓からこの温泉街が一望できた。
街灯はまばらにつき始めているが、他に灯りのついた建物は一つもない。
「停電か……?」
「どうしたんですか? この部屋の電気は普通につきますよ?」
「外、見てみろよ」
「ありゃ、本当だ。 どうして電気が点けてないんですかね」
ニュース……になってるわけないか。
第一、この旅館の明かりは点いているから、他の場所は意図的につけていないのだ。
スマホを開こうとして、やめた。
「さて、夕飯は何時なんでしょうか」
「確か、外部の出前の人が部屋までお弁当を持ってくるって。 というか、那奈花。 あくまで今回は天文部の合宿だぞ、メシのことばっか考えてるようだけど」
「細かいですね、将来ハゲますよ」
「へん、僕の家族は代々フサフサだ」
「そうですか」
興味なさそうに返事をしながら、那奈花は電気の消えた窓の外を見ていた。
◆
夕食の時間を過ぎても、廊下に足音はなかった。
「遅いですね……お弁当」
「そうだな……もう予定時間から三十分は過ぎてるな」
時計を確認してから、もう一度だけ障子を開けて外を見る。
辺りは暗く、音がない。
旅館の中を、少し探索してみることにした。
まず、一階に降りた。
一階の廊下も薄暗く、夜だというのに照明が点いていない。
非常灯だけが、壁際で赤く瞬いている。
足音が、やけに大きく響いた。
帳場には誰もおらず、事務所の扉も閉まったままだ。
「まさか、誰もいないなんてことはありませんよね? 実は予約の時点から、電話の人も幽霊だったとか……」
「そんなことあるわけないだろ、現実的に考えて」
「お腹すきました……冷蔵庫の中、勝手に食べちゃダメですかね?」
「ダメに決まってるだろ。 というか、ここ無人だから、冷蔵庫も電源入ってないだろ」
その時、遠くで何かが倒れる音がした。
ドスンというような、重いものの音だ。
二人とも、反射的に動きを止めた。
「あっちの方から聞こえましたね」
「お、おう……なんだよ、やっぱり人いるじゃないか」
音のした方向へ、慎重に歩く。
一階の奥、客用ではない通路。
壁の電灯は切れていて、非常灯の赤い光だけが頼りだった。
床には、何かを引きずったような跡が残っている。
「……これ、なんですかね」
「おい、むやみに触るな」
何か、液体状のものが乾いて、跡になったような――
「藍沢先輩、これ……。 血ですよ」
「お、おい。 マジかよ……」
この建物の中で殺人事件でもあったのだろうか……。
もし、そうだとしたら、宿帳にあった名前の客人は……殺された?
「おい、那奈花。 こっちに来い」
突き当たりの扉が、半分だけ開いていた。
引きずられた血の跡は、その部屋に続いている。
旅館の静寂が逆に耳に痛い。
「もしかすると、これは……とんでもない事になったかもしれない」
「せ、先輩。 どうします?」
その時、旅館の入り口の方から、硝子が割れる音が響いた。
視線の先、割れた入り口の向こう、逆光になった街灯の明かりが、人影を照らしている。
ゆっくりと、こちらに近づいてくる。
歩いているはずなのに、
動きが不自然だった。
「逃げるぞ、那奈花!」
「――えっ!?」
僕は咄嗟に那奈花の手を引っ張って、階段を駆け上った。
一瞬見えた、その人影の正体……。
それは、血に塗れた男だった。
その時点で、
まだ“何が起きているのか”は分からなかった。
ただ、
この旅館に来てから続いていた違和感が、
一本の線でつながった気がした。
◆
血塗れの男の気配を背中に感じつつ、階段を駆け上がり二階の部屋へ逃げ込んだ。
後ろを振り返る余裕はなかった。
不気味な呻き声と、歩く度に粘り気のある液体が床を叩く、不快な音を鳴らしていたのが、とにかく気持ち悪かった。
「那奈花! 早く入れ!」
「――は、はいっ!」
無我夢中で走って、部屋までたどり着いた。
鍵を閉め、すぐに近くの座卓と棚を、畳を傷つける音も構わずに引きずって扉の前に動かした。
「……入り口を塞ぐんですか? 何か武器とかでパコーンと……」
「馬鹿かお前は。 相手はたぶん、刃物を持ってるイカれてる奴だぞ……。 文化部高校生が何とかできるわけが――」
言い合いを遮るように、廊下から軋むような音が響いた。
「那奈花、静かに」
そういうと、那奈花はびくっとしながらも口を結んだ。
耳を澄ますと、ゆっくりだが足音が近づいてきている。
重い足を引きずるような歩き方が、薄い扉一枚を隔てて、すぐそこまで迫っていた。
「……先輩、そういえばさっきの男の人、身体に何か……鉄パイプみたいなのが刺さったままでした」
「何言ってんだ……そんなわけ」
「本当です! そこから血が滴って――」
足音が、僕たちの部屋の扉の前で止まった。
那奈花が息を呑む音が、やけに大きく聞こえる。
「音が止まった?」
彼女がそう呟きかけた、その時だった。
――ドォォォォン!
心臓を直接掴まれたような衝撃。
扉が内側へ歪み、バリケードにした棚がガタガタと悲鳴を上げる。
男はノブを回そうとも、言葉を発しようともしなかった。
ただ、自らの体重を、あるいは頭を、何度も扉に叩きつけている。
ドォン、ドォン、ドォン。
その単調で暴力的なリズムが、相手が「交渉の余地のない何か」であることを物語っていた。
扉の隙間から、腐敗したような、鉄錆に似た嫌な臭いが流れ込んでくる。
ドォン! ドォン!
何度目かの鈍い衝撃で、扉を支えていた飾り棚の脚が嫌な音を立てて砕け散った。
座卓もずるりと滑り、僕の腕を弾き飛ばした。
「うわっ!」
「先輩っ!」
ミシミシと歪んだ引き戸が、内側へ大きく開く。
途端、腐敗したような死臭が部屋中に充満し、二人の鼻腔を抉った。
そこに立っていたのは、やはりあの血塗れの男だった、目の色は白くなり焦点が合っていない。
半開きになった口からは、腐った肉片と、剥き出しの歯が見える。
……バールだ。
胸から背中まで、完全に貫通している。
即死のはずなのに、なんでこいつは立ってるんだ?
「なんだよ、この化け物は……」
足元には砕けた木片が散乱し、完全に退路を塞がれた。
咄嗟に後ずさりをしようとするが、躓いて尻餅をついてしまった。
すでに目の前に、不自然な歩行で踏み込んできていた。
その時、僕の背後から、那奈花の鋭い声が響いた。
「先輩、避けてっ!」
彼女が僕の脇を駆け抜け、勢いよく男に向かって何かを振り下ろした。
ずっしりと重く、先端には鋭利な金具が付いている。
それは、部屋の隅に置いてあった金属製の望遠鏡の三脚だった。
ガァンッ!
鈍い、しかし乾いた破壊音。
三脚の先端が、男の側頭部にまともにヒットした。
男の頭部が、まるで熟れた果実のようにぐしゃりと潰れる。
そのまま血と脳漿を撒き散らし、糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと床に倒れ込んだ。
――男は、動かなくなった。
部屋に、再び静寂が戻る。
荒い息を吐きながら、那奈花は震える三脚を握りしめていた。
強く握りすぎて、手の色が変わっている。
その顔は青ざめていたが、瞳は強い光を宿していた。
それは、殺してしまったという恐怖を、必死に理性で抑え込んでいるようだった。
「あ、焦って殴っちゃいましたけど……これ、正当防衛ですよね? 先輩が殺されると思って……」
「お、落ち着け。 大丈夫だ、こいつは、たぶんもう……さっきから死んでたんだ」
僕は、床に転がった男だったものから目を逸らし、震える手で那奈花の肩を抱いた。
「とりあえず、この旅館から出よう」
「……そうですね。 でも、さっきみたいなのが、また出たら……」
答える那奈花の言葉を塗りつぶすように、
階下から、「ガシャリ」と硝子の割れる音が二つ、三つと重なって響いた。
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