第9話「土地買取という最終条件」
「土地を……買い取る?」
夫婦はポカンと口を開け、理解が追いつかない様子で顔を見合わせた。
私はテーブルの上に、祖父が遺したあの土地の図面と、登記簿謄本を広げた。
「ええ。私が『あなたの土地を買う』と言ったと思いましたか? まさか。あなた方の住む家なんて欲しくありません」
私は冷ややかに微笑み、図面上のあの更地を指差した。
「あなた方が買い取るのは、こっちです。今まで我が物顔で不法駐車をしていた、私の実家の土地。これを、あなた方に売却して差し上げます」
「は、はあ!? なんで俺たちがそんなボロ土地を……!」
夫が反論しようと腰を浮かすが、弁護士の鋭い視線に射抜かれて再び座り込む。
私は淡々と条件を提示し続けた。
「あなた方は、私への慰謝料や損害賠償金、計300万円が払えないとおっしゃった。ない袖は振れない、と。……ですが、不思議ですね。あなた方は車を持っていますし、毎日のようにあの土地を利用していた。『あの土地が必要』なんですよね?」
「そ、それは……」
「ですから、合理的解決策を提示しているんです。示談金300万円を支払う代わりに、あの土地を300万円で購入する契約を結ぶのです」
私は手元の電卓を叩き、夫婦に見せた。
「もちろん、現金一括とは言いません。300万円を元本として、あなた方に『金銭消費貸借契約』を結んでいただきます。つまり、私に対する借金です。これを毎月分割で返済していただく。期間は10年。ボーナス払い併用で、月々の支払いは……まあ、パート代から少し引かれる程度ですね」
妻がごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。
月々の支払いなら、なんとかなるかもしれない。そう計算している顔だ。
夫も、「前科がつく」「会社をクビになる」という恐怖から解放されるなら、土地が手に入る分だけマシだと考え始めている。
「でも……あの土地、草ぼうぼうだし……そんなに価値あるの?」
「価値? ありますよ。『あなた方にとっては』ね」
私は畳み掛ける。
「この契約に応じれば、あなた方は晴れてあの土地の所有者です。もう誰に文句を言われることもなく、堂々と車を停められる。不法駐車ではなくなるのです。それに、私が被害届を取り下げれば、前科もつかない。会社もクビにならない。……どうです? ウィンウィンでしょう?」
ウィンウィン。なんて甘美な響きだろう。
だが、その実態は一方的な搾取だ。
あの土地は、形がいびつな「旗竿地」で、建築条件も厳しく、市場に出しても二束三文にしかならない。しかも、毎年の固定資産税や、夏場の草むしりの手間がかかる「負動産」だ。
母も長年、処分の仕方に頭を悩ませていた。
それを、相場よりはるかに高い「300万円(=慰謝料分)」で売りつけ、厄介払いをすると同時に、相手に借金を背負わせる。
まさに一石二鳥。いや、一石三鳥の妙案だ。
「さらに、この契約は『公正証書』にします」
弁護士が、分厚い契約書のドラフトを取り出した。
「ここには『強制執行認諾文言』が入ります。もし支払いが一度でも滞れば、裁判をすることなく、直ちにあなた方の給与や財産を差し押さえます」
夫の顔が引きつる。
逃げ場はない。
一生、私という債権者に首根っこを掴まれたまま生きるか、今すぐ刑務所行きのリスクを負うか。
「さあ、選んでください。刑務所か、土地のオーナーか」
長い、長い沈黙があった。
やがて、夫は震える手でペンを握った。
「……わ、わかりました。買います。買わせてください……」
「私も……同意します……」
二人は契約書に署名し、拇印を押した。
朱肉の赤い色が、彼らの自由が終わったことを告げる烙印のように見えた。
◇
手続きが終わり、項垂れる夫婦が事務所を出て行った後。
私はソファに深く体を預け、大きく息を吐いた。
「……お見事でした、小鳥遊さん」
弁護士が眼鏡の位置を直しながら、呆れたように、しかし感心したように言った。
「あの土地、実勢価格はせいぜい50万円ほどでしょう。それを300万円で売り抜け、しかも確実な債権として回収するとは……恐れ入りました」
「あら、彼らには『駐車場の権利』と『社会的地位』を守ってあげたんですもの。安い買い物でしょう?」
私は悪戯っぽく笑った。
これで実家の最大の懸案事項だった「空き地の管理」から解放される。
母も、もう草むしりに悩まされることはない。
その代わり、あの夫婦がこれからは一生懸命、あの土地の草をむしり、固定資産税を払い、私に毎月送金をしてくるのだ。
「さて、帰りましょうか。お母さんに、最高の『お土産』ができたわ」
私は窓の外、煌めく東京の夜景を見下ろした。
元姑との戦いで失ったものは多かったけれど、手に入れたものも確かにあったようだ。
この図太さと、交渉力。
これさえあれば、今後の人生、何があっても生きていける。
私の心は、秋晴れの空のように澄み渡っていた。
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