第8話「追い詰められた夫婦」
数日後。都内にある弁護士事務所の応接室。
重厚な革張りのソファと、磨き上げられたガラスのテーブル。
その場違いな空間に、あの夫婦は小さくなって座っていた。
夫の方は、釈放されたとはいえ、無精髭を生やし、目は落ち窪んでいる。
会社にはなんとか言い訳をして休んでいるらしいが、もし起訴されて前科がつけば、懲戒解雇は免れないだろう。
妻の方も、派手なメイクは影を潜め、ノーメイクにマスク姿で震えている。
対面に座る私は、背筋を伸ばし、優雅に紅茶のカップを傾けた。
隣には、怜悧な眼鏡をかけた代理人弁護士が控えている。
「……単刀直入に申し上げます」
弁護士が書類の束をテーブルに置いた。
その乾いた音が、静まり返った室内に響く。
「小鳥遊綾氏は、今回の件について、断固たる処罰を望んでおられます。暴行による傷害、住居侵入、そして長期にわたる不法駐車による権利侵害。これらを法的に争えば、あなた方が実刑、あるいは重い罰金刑を受ける可能性は極めて高い」
「そ、そんな……! 実刑なんて勘弁してください! 俺には仕事が……家のローンだってあるんだ!」
夫がテーブルに身を乗り出して叫ぶ。
私はカップをソーサーに戻し、冷ややかな視線を送った。
「仕事? ローン? それが私と何の関係があるのですか? 暴力を振るう前に、ご家族の顔は浮かばなかったのですか?」
「うっ……それは……」
男が言葉に詰まる。
私はため息交じりに続けた。
「ですが、私も鬼ではありません。あなた方が心から反省し、誠意ある対応をするのであれば……被害届を取り下げ、示談に応じる用意はあります」
その言葉に、夫婦の顔にパッと希望の光が差した。
妻が「ありがとうございます!」と頭を下げる。
だが、その希望はすぐに絶望へと変わる。
「これが、こちらの提示する示談条件です」
弁護士が、一枚のペーパーを彼らの前に差し出した。
そこに書かれた金額を見た瞬間、妻が「ひっ」と息を呑み、夫が目を見開いて固まった。
「さ、さんびゃく……万!?」
内訳はこうだ。
怪我の治療費と慰謝料。
精神的苦痛に対する損害賠償。
これまでの不法駐車料金(近隣相場の上限で計算)。
弁護士費用。
そして、ネットでの名誉毀損に対する和解金。
合計、金300万円也。
「た、高すぎる! ただ転んだだけだろう!? なんでそんな金額になるんだ!」
「ただ転んだ? あなたは私の家に侵入し、私を突き飛ばしたのですよ? もし打ち所が悪ければ、死んでいたかもしれない。その恐怖の対価です」
私は一歩も引かない。
弁護士も冷静に補足する。
「刑事事件を回避し、前科がつかないようにするための『解決金』としては、妥当なラインです。もしこれが払えないのであれば、示談は不成立。あとは検察にお任せすることになります」
「ま、待ってください! 払えません! そんな大金、今すぐ用意できるわけないじゃないですか!」
妻が泣きついた。
事前の調査通りだ。
彼らは家のローンと車のローン、そして子供の教育費で家計は火の車。貯金などほとんどない。消費者金融に走ったとしても、この額には届かないだろう。
「ない袖は振れない、ということですか」
「そうです! お願いします、もう少し減額を……せめて分割で……!」
「分割? 信用できない相手に、そんな温情をかけると思いますか?」
私は冷たく突き放した。
夫婦は抱き合うようにして項垂れた。
夫は頭を抱え、妻はすすり泣いている。
完全に詰みだ。
払えば生活破綻。払わなければ前科持ちで社会的に抹殺。どちらを選んでも地獄。
……さあ、頃合いだ。
私はふっと表情を緩め、まるで慈悲深い女神のような(しかし目は笑っていない)声色で言った。
「……困りましたね。お金がないのでは、示談はできません」
「ううっ……」
「でも、そうですね……現金以外の方法であれば、話は別ですが」
その言葉に、夫が弾かれたように顔を上げた。
「げ、現金以外……? な、なんだってします! 身体で払えって言うなら、何でも……!」
「いえ、あなたの身体になど興味はありません」
私はテーブルの上に置かれた、彼らの資産状況の調査書を指先でトントンと叩いた。
そして、獲物を前にした肉食獣のように、ゆっくりと口角を上げた。
「お金がないなら、代わりになる『資産』をいただければいいんです。……例えば、あなた方のお住まいの、その『土地』とか」
「は……?」
夫婦は呆気にとられたように口を開けた。
意味が理解できていないようだ。
私は身を乗り出し、最後のカードを切った。
「慰謝料の代わりに、あの土地を私が買い取ります。もちろん、借金を相殺した上で、少しだけ色をつけて。……それで、全てチャラにして差し上げましょう」
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