第7話「警察・弁護士・世論の逆転」
翌日。
私は病院で「全治二週間の打撲および擦過傷」という診断書を取得すると、そのまま母を連れて所轄の警察署へ向かった。
対応に出てきたのは、先日「民事不介入」と言い放ったあの若い巡査だ。
彼は私を見るなり、気まずそうに視線を泳がせたが、私の腕に巻かれた包帯を見て表情を硬くした。
「小鳥遊さん……その怪我、どうされたんですか?」
「昨日、不法駐車をされている車の持ち主のご主人が、自宅に怒鳴り込んできましてね。暴力を振るわれました」
私は事務的に告げると、診断書と、USBメモリに入れた動画データをカウンターに置いた。
「これが暴行の瞬間の一部始終です。住居侵入、および傷害罪として被害届を提出します。……まさか、人が怪我をしているのに『民事不介入』とは言いませんよね?」
私の静かな、しかし刺すような言葉に、巡査は背筋を伸ばした。
動画を確認した彼は、すぐに上司を呼び、刑事課の刑事が飛んできた。
映像には、男が一方的に怒鳴り散らし、私を突き飛ばす様子が鮮明に映っている。音声もクリアだ。
「……これは、完全にアウトですね」
刑事が太鼓判を押した。
これで、事案は「近所トラブル」から「刑事事件」へと昇格した。警察の動きは早かった。
◇
その日の夕方。
町内は騒然となった。
パトカーがサイレンを鳴らさずに(しかし赤色灯は回して)あの夫婦のアパートの前に停まり、夫が任意同行を求められたからだ。
夫は「ちょっと押しただけだ!」「女が当たり屋なんだ!」と喚いていたらしいが、警察署での取調べで突きつけられた動画を見せられ、ぐうの音も出なくなったという。
さらに、私はダメ押しの一手を打っていた。
元夫との離婚調停でお世話になった弁護士に連絡を取り、代理人になってもらったのだ。
弁護士は仕事が早かった。
あの女がSNSで拡散していた「悪徳地主」の投稿に対し、弁護士名義で、事実関係を訂正する警告文を送ったのだ。
『貴殿の投稿内容は事実無根であり、当方の依頼人に対する名誉毀損に該当します。現在、警察に傷害事件として被害届を受理されており、捜査が進行中です。直ちに投稿を削除しなさい』
効果は覿面(てきめん)だった。
「警察が捜査中」「傷害事件」というパワーワードに、ネット上の野次馬たちは掌を返した。
『え、暴行したの? 被害者ぶってたけど加害者じゃん』
『旦那が地主の娘に怪我させたらしいぞ』
『嘘つき夫婦乙』
同情のコメントは一瞬で消え、代わりに夫婦への批判が殺到する。
炎上先が、私から夫婦へと逆転した瞬間だった。
◇
夜。
インターホンが鳴った。
モニターを見ると、そこには、あのピンクのエプロン姿の主婦が立っていた。
昨日のような威勢の良さは微塵もない。
髪は振り乱れ、目は赤く腫れている。
夫が帰ってこない不安と、ネットでの炎上、そして事の重大さにようやく気づいた恐怖で、震え上がっているようだ。
「……小鳥遊さん、いらっしゃいますか……? 謝らせてください……お願いします……」
蚊の鳴くような声。
母が「どうする?」と不安そうに私を見たが、私は首を横に振った。
ここで情けをかけては、元の木阿弥だ。
私はインターホンの通話ボタンを押した。
『お引き取りください』
「お願いします! 夫を、夫を返してやってください! 会社クビになっちゃうんです! 示談にしてください、お願いします!」
女はカメラに向かって土下座せんばかりの勢いだ。
しかし、その言葉は私の心には響かない。
会社をクビになる? それがどうした。
彼が暴力を振るった結果だ。自業自得である。
『示談? 謝罪? 今さら何を言っているんですか』
私はマイク越しに、氷点下の声で告げた。
『あなた方は、私が何度警告しても無視し、嘲笑い、あまつさえネットで私を悪者に仕立て上げた。そして最後は暴力です』
「うっ、ううっ……ごめんなさい、本当にごめんなさい……!」
『謝罪は受け付けません。全て、弁護士と警察を通してください。私の目の前に二度と顔を見せないで』
プツッ。
私は通話を切った。
外からは、しばらく女の泣き声が聞こえていたが、やがて諦めたのか、足音が遠ざかっていった。
私はふぅ、と息を吐き、ソファに深く沈み込んだ。
ズキズキと痛む肘をさする。
「……さて。これで相手は完全に『詰み』ましたね」
相手は社会的信用を失い、夫は逮捕され、示談に応じなければ前科がつく可能性もある。
喉から手が出るほど示談を欲しがっているはずだ。
そう、ここからが本当の「商談」だ。
ただの示談金で許すつもりはない。
私が欲しいのは、金ではない。もっと根本的な解決――そう、「土地」そのものだ。
私は弁護士から届いたメールを開く。
そこには、相手の経済状況の調査報告と、とある提案書が添付されていた。
「準備完了。……骨の髄まで、責任を取ってもらいましょうか」
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