第3話:『幸福を強いる肉体(フィジカル)』

 玲奈に突きつけられた「飼育ログ」の衝撃を抱えたまま、俺は中庭へと逃げ出した。

 逃げている最中ですら、俺の足は無意識に「最も効率的なルート」を選んでしまう。一万回の蓄積が、俺の筋肉に呪いのように刻み込まれているのだ。


「あ! 湊くん、見ーつけた!」


 鼓膜を弾くような明るい声。

 陸上部のエース、陽葵が、眩しい太陽を背負ってこちらへ駆けてくる。その躍動感あふれる肢体、健康的な小麦色の肌、弾けるような笑顔。

 これまでの周回で、彼女は俺の心の清涼剤だった。複雑な陰謀も裏も持たず、ただ真っ直ぐに俺を追いかけてくれる、最も安全なはずのヒロイン。


 だが、今の俺には、彼女のその「速さ」が捕食者のそれに見えた。


「陽葵……。部活はどうしたんだ?」

「休憩中だよ! 湊くんがここを通る確率、玲奈ちゃんから聞いてたから」


 さらりと、玲奈との連携を口にする。やはり、この学園の包囲網に「死角」はない。


「ねえ、湊くん。これから部活の特別練習、付き合ってくれないかな? 湊くんがタイムを計ってくれるだけで、私、世界記録だって出せそうな気がするんだ!」


 断る理由はなかった。いや、断る「選択肢」が提示されなかった。

 気づけば俺は、彼女に手を引かれ、放課後のグラウンドに立っていた。


 夕焼けに染まったタータンの上。陽葵はクラウチングスタートの姿勢をとり、俺を見上げる。


「いくよ、湊くん。合図して」

「……位置について。よーい、スタート」


 俺がストップウォッチを押した瞬間、陽葵が爆発的な加速で飛び出した。

 一万回見てきた光景だ。この後、彼女はコーナーの入り口でわずかにバランスを崩し、それを俺が駆け寄って支える。それが「最高の好感度イベント」の引き金になるはずだった。


 案の定、陽葵が足をもつれさせる。

 俺は「知っている」通りに走り出し、彼女の身体を抱き止めた。


「おっと……大丈夫か、陽葵」

「……えへへ、ありがと。やっぱり湊くんは、絶対助けてくれるよね」


 腕の中の陽葵は、ひどく熱かった。心拍数が異常なほど速い。

 だが、彼女の表情から笑みが消えた。彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、冷徹なトーンで呟いた。


「……でも、今の、三点(ポイント)減点かな」

「えっ?」


 陽葵が俺を突き放す。その眼光は、先ほどまでの太陽のような明るさを失い、獲物を鑑定するアスリートのそれへと変貌していた。


「湊くん、今、私の身体を支えるとき、右手に迷いがあったでしょ? 前の周(・ ・ ・)の時は、もっと迷いなく腰を抱いてくれたのに」


 背筋に冷水が走る。

 お前もか。陽葵、お前まで「前」を覚えているのか。


「……何を言ってるんだ、陽葵。前なんて――」

「嘘はダメだよ。私、身体で覚えてるもん。湊くんが私を愛してくれてる時の、筋肉の緊張、呼吸のタイミング。……さっきの助け方は『偽物』。心が入ってない」


 陽葵が一歩、歩み寄る。俺は思わず一歩、下がる。


「湊くんが『完璧』じゃないと、私、最高のパフォーマンスが出せないの。湊くんが少しでも私から心を逸らすと、世界が歪んじゃうんだよ?」


 彼女は自分の足元を指差した。


「だから、修正(メンテナンス)しなきゃ」


 次の瞬間、陽葵の姿が消えた。

 視界が揺れる。気づいた時には、俺は地面に押し倒されていた。

 陽葵が俺の上に跨り、両手で俺の手首を地面に縫い付けている。陸上競技で鍛え上げられた彼女の筋力は、俺の抵抗を容易く封じ込めた。


「な、何を……離せ、陽葵!」

「動かないで。湊くんが余計な動きをすると、また計算がズレちゃうから」


 彼女は空いている方の手で、ジャージのポケットから何かを取り出した。

 それは、テーピング用の粘着テープと、見慣れない形状の小型デバイスだった。


「玲奈ちゃんが言ってた。湊くんが『最適解』から外れようとするのは、脳が余計なノイズを拾ってるからだって。……だから、物理的に固定しなきゃ」


 陽葵は俺の右足首を掴むと、恐ろしい力で捻り上げた。

 グキリ、という嫌な音が鼓膜を震わせる。激痛が脳を突き抜けた。


「あ、がっ……!? 何を、何をするんだ!」

「大丈夫だよ。湊くんが逃げようとしなければ、痛くないように固定してあげる。……ほら、これで湊くんは、明日も、明後日も、私が倒れる場所に立っていられるでしょ?」


 彼女は俺の足首に手際よくデバイスを装着し、テーピングで固めていく。

 それは「治療」ではない。俺を特定の場所に、特定の時間に留まらせるための「重石」だ。


「これ、GPSと連動しててね。指定されたルートから外れると、筋肉に微弱な電流が流れるようになってるの。雫先輩が特注で作らせたんだよ? 『湊くんの安全のため』だって」


 陽葵は、俺の頬に付いた土を優しく拭い、母親のような慈しみを持って微笑んだ。


「これで安心だね、湊くん。もう迷わなくていい。私が、雫先輩が、玲奈ちゃんが、あなたの正解(レール)を全部守ってあげる」


 グラウンドの照明が、バチバチと音を立てて点灯した。

 逆光の中に立つ陽葵のシルエットは、もはや救済の天使ではなく、逃げ場のない檻の番人そのものだった。


 俺の足首に嵌められたデバイスが、冷たく、そして正確なリズムで脈打っている。

 それは、俺の自由が死んだことを告げる、葬送の鐘の音のように聞こえた。


「……さあ、保健室に行こう? 湊くんが怪我しちゃったのは、私のせいだから。……私がずっと、責任を持って、一生介護してあげる」


 陽葵に抱き上げられた俺は、抵抗する気力すら奪われていた。

 視線の先、校舎の屋上から、雫と玲奈が満足げにこちらを見下ろしているのが見えた。

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2026年1月16日 21:00
2026年1月17日 21:00
2026年1月18日 21:00

一万回目の学園で、俺だけが選べない 五平 @FiveFlat

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