第2話:『統計的幸福の檻』

 二周、三周……。最初のうちは、自分の意志で運命を変えている万能感に酔いしれていた。

 だが、この一万回目において、俺の行動はもはや「意志」ではない。それは単なる「最適解のなぞり」だ。


 二時限目の後の休み時間。俺は席を立ち、流れるような動作で廊下へ出る。

 三秒後に角から曲がってくる教師を避け、五秒後に落ちるはずの名札を拾い上げ、隣のクラスの女子の視線を「偶然」を装って受け止める。

 すべてがパズルを埋めるような快感だった。


 そんな俺を、図書室の窓際で待っている影がある。

 生徒会副会長、玲奈だ。


「遅いわね、湊くん。予測より一分十二秒の遅延。……あのアイスブルーの瞳に捕まっていたのかしら」


 彼女は分厚い統計資料から目を離さずに言った。隣のクラスの女子の瞳の色まで、彼女は把握している。


「……人気者は辛いよ。玲奈こそ、そんな難しい顔をして何を調べてるんだ?」


 俺は「正解」の距離感で彼女の隣に座る。

 本来、玲奈は鉄面皮で合理主義を絵に描いたような女だ。以前の周回では、彼女を攻略するために数千回の試行錯誤が必要だった。だが今は違う。彼女が何を言えば喜び、どのタイミングで眼鏡を直すのか、俺はすべてを知っている。


「学園の『安定性』についてよ。湊くん、あなたは気づいている? 最近、生徒たちの幸福度が異常なほど高止まりしていることを」

「いいことじゃないか。みんなが幸せなら、それに越したことはない」

「ええ。でも、不自然なの。まるで何らかの『外力』によって、不幸という変数が強制的に削除されているかのような――」


 玲奈が初めて顔を上げ、俺を凝視した。

 俺は、彼女が次に何を言うか知っている。ここで俺が「考えすぎだよ」と言いながら彼女の髪に触れれば、彼女は頬を染めて議論を打ち切るはずだ。


 俺は手を伸ばした。彼女の柔らかな前髪に指が触れる。


「考えすぎだよ、玲奈。君はいつも頑張りすぎなんだ。少しは自分を甘やかしてもいい」


 完璧な角度。完璧な声色。

 だが、玲奈は頬を染めなかった。

 代わりに、彼女はまるで「壊れた玩具」を見るような、深く冷徹な慈しみを湛えた目で俺を見つめ返した。


「……湊くん。その指の角度、三度高いわ。声のトーンも、前回の『火曜日』よりわずかに明るすぎる」


 指先が凍りついた。

 前回? 火曜日?


「湊くん、あなたに教えてあげる。私が計算しているのは、学園の統計だけじゃない。あなたの『行動パターン』の蓄積よ」


 彼女は手元の端末を俺に向けた。

 そこには、膨大なログが表示されていた。俺がいつ、どこで、誰に、どんな言葉をかけたか。そのすべてが、周回を跨いで記録されているかのようなグラフ。


「あなたが今日、図書室に来て私に触れる確率は九十八・六パーセント。……そして、その後の台詞も。一万回近く繰り返せば、どんなに独創的な人間でも、結局は『最も愛される最適解』に収束してしまうのね。悲しいことだけど」


 玲奈の言葉が、俺の背骨を冷たい剃刀でなぞる。

 知識チートを使っているのは、俺だけだと思っていた。俺だけがこの世界の神(プレイヤー)だと思っていた。

 だが、玲奈の瞳に映っている俺は、単なる「よく動くサンプル」に過ぎなかった。


「湊くん。あなたは自分が選んでいるつもりかもしれないけれど、それは違うわ。あなたが『最適解』を選ばざるを得ないように、私たちが周囲の状況を、光を、音を、人々の視線を、すべてを微調整して『誘導』しているの」


 彼女は椅子から立ち上がり、俺の背後に回った。

 背中から回された彼女の腕は、拘束具のように冷たく、重い。


「あなたが次に何を言うか、私は全部知っている。だって、そう言うように私が昨日からあなたの食事の塩分濃度を調整し、睡眠を誘導し、さっきの女子生徒との接触を仕組んだのだから」


 すべてが。

 俺が「チート」だと思っていた直感も、タイミングも、すべてが彼女たちの「飼育計画」の一部。

 俺が完璧であればあるほど、彼女の計算が正しいことが証明され、彼女の「愛」は深まっていく。


「……玲奈、君は、何を言ってるんだ?」

「あら、それも『驚く演技の最適解』ね。湊くん、もっと私を楽しませて? あなたが私の計算から外れようと足掻くたびに、計算式が更新される。そのたびに私の愛は強固になり、あなたの逃げ場は一ミリずつ削られていくの」


 玲奈の唇が、俺の耳元に触れた。

 その瞬間、図書室のスピーカーから小さなノイズが混じった。


『……湊くん、お話は終わったかしら? 玲奈、独占は禁止よ』


 放送室からの声。生徒会長、雫の声だ。

 玲奈は愉快そうに微笑み、俺の肩を叩いた。


「さあ、行きなさい。次の『幸福なイベント』が、中庭であなたを待っているわ」


 図書室を出る俺の足取りは、先ほどまでの軽やかさを失っていた。

 廊下ですれ違う女子生徒たちが、一斉に俺を見て、同時に微笑む。

 そのタイミングは、まるで一糸乱れぬダンスのように、完璧に制御されていた。


 俺は、自分が築き上げた「完璧な楽園」という名の、巨大な胃袋の中にいることに、ようやく気づき始めていた。

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