一万回目の学園で、俺だけが選べない

五平

第1話:『幸福な既視感のなかで』

 目覚まし時計が鳴る一秒前、俺は正確に指を伸ばしてアラームを止めた。

 カーテンの隙間から差し込む陽光の角度も、微かに混じる朝食の味噌汁の匂いも、すべてが計算通り、いや、「記憶通り」だ。


「おはよう、湊くん。今日はいつもより三秒、起きるのが早かったね」


 階下から聞こえる母さんの声に、俺は適当な返事を返しながら着替える。制服の袖を通す感覚も、鏡に映る自分の顔も、もう数え切れないほど繰り返してきた儀式に過ぎない。


 通学路。角を曲がる瞬間、俺は速度をわずかに緩めた。

 刹那、横から飛び出してきた少女と肩が触れる。


「あ、ごめんなさい! ……あ、湊くん?」


 そこにいたのは、陸上部のエース、陽葵だった。彼女の手からこぼれ落ちそうになったスポーツバッグを、俺は地面に落ちる前に片手で受け止める。


「……大丈夫。いつも通り、慌てすぎだよ」

「えへへ、見抜かれてるなぁ。でも、湊くんに助けてもらえるのも、なんだか予定通りって感じ!」


 陽葵は太陽のような笑顔で俺の腕に抱きついてくる。その体温は心地よく、男女比一対二十というこの学園において、こうした過剰なスキンシップは日常の風景だ。


 教室に入れば、そこは楽園だった。

 生徒会長の雫が、俺の席の机を丁寧に拭いている。彼女の指先は震えることもなく、まるで聖遺物を扱うような手つきだ。


「おはよう、湊くん。今日の小テスト、範囲は数学の三十二ページからよ。あなたが昨日の放課後、少しだけ苦手そうにしていたところ」

「……ああ、助かるよ」


 彼女は完璧な微笑みを浮かべ、俺のネクタイを整える。

 副会長の玲奈が、眼鏡の奥の鋭い瞳で俺たちの様子を観察しながら、手元の端末に何かを打ち込んでいた。


「湊くん、今日の昼食は購買の焼きそばパンではなく、私が用意したお弁当を食べて。糖分が不足すると、午後の授業の集中力が四パーセント低下する予測が出ているわ」


 至れり尽くせり。

 誰もが俺を愛し、俺のために動き、俺の望む未来を先回りして用意してくれる。

 一万回も繰り返せば、この世界は一つの完成された自動機械(オートマトン)のように滑らかに回る。


 不意に、視線を感じた。

 教室の隅。地味な眼鏡をかけた少女、栞が、一言も発さずに本を読んでいる。

 彼女の頁をめくる音だけが、この完璧なアンサンブルの中でわずかにズレたリズムを刻んでいるように聞こえた。


 放課後、俺は「最適解」に従って、雫に誘われた生徒会室へと向かう。

 彼女の淹れた紅茶は、俺が最も好む温度、八十二度で完璧に安定していた。


「湊くん、この学園は好き?」


 カップを置いた雫が、至近距離で俺を見つめる。その瞳の奥には、濁りのない純粋な好意だけが満ちていた。


「ああ、最高だよ。何も困ることがない」

「そう。よかった……。本当に、よかった」


 雫の手が、俺の頬を撫でる。その指先が、わずかに冷たい。


「だって、もしあなたが不幸せだと感じたら、世界をまた直さなきゃいけなくなるもの。……次はもっと、もっと上手に、あなたを愛せるように」


 俺の脳裏に、小さな違和感が走る。

「直す」?

 まるで、壊れた機械を修理するかのような言い草。

 

「雫、それってどういう――」


 問いかけようとした瞬間、彼女の瞳の奥で、何かが蠢いた気がした。

 それは無数の、絶望に歪んだ俺自身の顔が、走馬灯のように駆け巡る幻影。


「湊くん、あなたは何も考えなくていいの。だって、正解は全部、私たちが知っているんだから」


 窓の外を見ると、夕焼けが異様なほど赤く、そして静止していた。

 カラスの声も、風の音も聞こえない。

 ただ、雫の規則正しい呼吸音だけが、耳元で「コト、コト」と、秒針のように響いていた。

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