第3話
「やあ、アリス。待ちわびたよ」
扉をあけた僕の耳に、その音色が話しかけてきた。
いや違う。
音色は今も僕の耳に聞こえている。
話しかけてきたのは音色じゃない。
床に畳が敷き詰められた部屋。窓もなく、家具もない空っぽの部屋。
そんな部屋の中心に、ペタリと座り込むようにして居座る少女。
その少女の口から、言葉は発せられていた。
「ようこそ。不思議の国へ」
腰まで伸び、それでもなお止まることを知らず、畳の上を流れる艶やかな黒髪と、夜に浮かぶ月のように白い肌には、まるで夜の闇をそのまますくい取って雫にしたような瞳が、大きく見開いていた。
それはもうまるで、この世のものとは思えない美しさだった。
少なくとも僕は、これ以上に美しいものを今まで見たことはない。
自然とそんな感情が浮かぶほど美しかった。
「どうしたんだい。そんなところで立ち止まっていては、君が望むものは手に入らないよ」
そう言って少女は立ち上がり、一歩足を踏み出した。
「君は歩み寄るべきだ。でなければ君の望むものは一生手に入ることはないだろう」
そう言って、また一歩少女が僕に近づいてくる。
たったの二歩。それでも互いに手を伸ばせば届きそうなほど、二人の距離は近づいていた。
それほどまでに近づいているのに、僕にはなぜか、目の前の少女がとても遠い存在のように感じられた。
湖面に映る月のように、手を伸ばしても決して届くことはない。
それどころか、手を伸ばして触れれば、掻き消えてしまいそうにさえ思えた。
「ようこそアリス。さあ君の願いを聞こうか」
少女が優しく語りかけてくる。
それは甘く、優しく、美しい声だった。
「願い?」
「そう、願いだ。君にもあるのだろう? 願いが。だからここに来た」
願い。
僕の願いはいったい何だ?
あの日々を取り戻すこと?
妹が目覚めること?
それとも、このモノクロな景色が色づくこと?
どれだけ考えても、答えは出なかった。
昔だったら、欲しいものなど腐る程思い浮かんだのに、今ではもう、それらさえも無価値なガラクタに思えてしまう。
「なにも思い浮かばないかい? それとも口にすることもはばかられるような願いなのかな?」
そう言って僕を見つめる少女の瞳から逃げ出すように、視線を下に落とした。
「あ、それ......」
少女が抱きかかえるようにして持っている物に気がつき、思わず声を出して指差してしまった。
その指先を辿り、僕の短い言葉の意味を理解した少女の口元が僅かに緩む。
「ああこれかい、綺麗な音色だろ? 今の私のお気に入りだ」
少女の目線の高さまで持ち上げられた小さなオルゴールが、誇らしげに音を鳴らし続けていた。
「まあ、この曲がいったいどのような名前の曲なのか、私は知らないのだけれどね」
そう言って再び元の位置に戻ったオルゴールの音色は、どこか悲しそうに聞こえた。
「さて、無駄話しも終わったところで。願いは決まったかい?」
少女が再び語りかけてくる。
美しく、儚く、幻想的な雰囲気を纏った少女。
名も知らぬ優しい音色を抱きながら、空っぽの部屋に静かに佇み続ける少女。
さっきまでチープな絵画のように見えていた世界が、急速に現実味を帯び、過剰なほどに色づいていく。
「僕は、僕の願いは......」
だからこそ僕は。
「君のことが知りたい」
そんな風に、世界を色づかせる彼女のことを知りたいと願ったのだ。
「あっははははは。そんなことが君の願いだというのかい? こんなところまで来てそんなことが、くくっ」
少女はオルゴールと一緒に、腹を抱えてその場にうずくまってしまった。
「何もそんなに笑わなくても......」
「いやなに、すまなかった。こんなことを言ってきたのは君が始めてでね。まったく君は最高だな」
何を持って最高なのか、まったくもって分からなかったが、それでもなぜか悪い気はしなかった。
「テレスだ」
「え?」
少女は一通り笑い終えると、唐突に手を差し出してきた。
「私の名前だよ。私のことを知りたいと願ったのは君だろう?」
「あ、ああ」
そう言われて僕は、気のない返事と一緒に差し出された手を半ば反射的に握った。
「はじめましてアリス。ここは不思議の国。現実と忘却の狭間の世界だ」
僕の名前は、アリスなどというメルヘンチックなものでは決してないのだが、今はそんなことは些細なことに思えた。
「よろしくテレス」
短く挨拶を交わす僕をみて、テレスは優しく微笑んでいた。
「それで、具体的に君は、私の何を知りたいのかな?」
優しい笑みを貼り付けたままのテレスが、ニコリと語りかけてきた。
「いや、わりと思いつきで言ったから、具体的にと言われても困るんだけど......」
無表情というのもあれなので、とりあえず苦笑いを浮かべてみる。
そんな僕の様子を見たテレスが、やれやれといったふうに頭を横にふった。
「まったく君という人間は。普通こういうときは、ぱっと思いつくものじゃないのかい?」
「......ごめん」
呆れ果てたようなテレスの態度に、思わず謝ってしまった。
「謝る暇があるのなら、少しは私への質問でも考えたらどうだい? 君がそうやってうなだれている間も、時間は刻一刻と流れているのだよ」
諭すように語りかけるテレスの言葉は、決してきついものではなかった。
でもそれ故に、言葉を発することのできない自分がとても情けなく感じた。
「はあ、わかったよ。今回は出血大サービスだ」
あきらめたようにテレスが言う。
「少し面白いものを見せてあげるから、そこを通したまえ」
そう言ったテレスが、僕の脇を通り抜けようと向かってきた。
「え、いや、ちょっと」
テレスの小さな体が、僕の横をすり抜けようともぞもぞと動く。
「わかった。退く、退くから少し待ってくれ」
「いや、かまわんよ。この程度の隙間なら問題なくすり抜けられる」
「いやいや、すり抜けられるとか、すり抜けられないとかの問題じゃなくて!」
もぞもぞと動くテレスの体から、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。
僕は横をすり抜けようとするテレスになるべく接触しないように、体を壁際に追いやりスペースを絞り出した。
「すり抜けられるかどうかの問題じゃないとしたら、いったいなんの問題なんだい?」
ちょうど僕の横をすり抜け終えたテレスが、振り向きながら質問してくる。
「いや、もういいよ......」
そう答えた僕は、なぜ女の子はいい匂いがするのだろう、などということを考えていた。
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