一月十四日 国際凧の日

居住区の天井に、今日はやたらと布が目立つ。

ポールの先に結ばれた無数の旗が、空調の風を受けて静かにゆらめいている。長く真っ直ぐに続く通路の上空を色とりどりの布が占領しているのを、私は首を痛めそうになりながら眺めていた。


今日は国際凧の日、というらしい。出自はわからないが、とにかくそうらしい。

そしてこの旗たちが、今の世の「凧」なのだという。


コールドスリープから目覚めて、まだ半年。

八十年を生きてきた私でも、この五百年で形を変えた世界をいまだに受け入れきれずにいる。全長3キロメートルにも及ぶ巨大な円筒形の宇宙船――スペースコロニーと呼ばれるこの人工の街で、最初に人が目覚めたのは五百年前だという。そこから世代が積み重なり、言葉も風習も、私の知る地球のものとは少しずつずれていったのだろう。その結果の一つが目の前の「凧」だ。


私の知る凧は、空を飛ぶものだ。

風を受けて、糸を引き、空へ逃げていくものだ。

空のないこのコロニーで、凧を揚げるという文化が継承されなかったのはなんとなくわかる。ただ、ポールに縛られて、同じ高さで揺れている布を凧と呼ぶのは、どうにも腑に落ちない。


「違うよなあ、やっぱり……」


私がそう呟いたとき、後ろから声がした。


「何が違うんです?」


驚いて振り向くと、二十歳そこそこだろうか、灰色の髪を後ろに括った女性が立っていた。私はこの女性に見覚えがある。区役所に諸手続きのため暫く足を運んでいた時期、いつも資料を胸元に抱えて忙しそうに右往左往していた。活動的なその姿が妙に印象的で、なんとなく目で追っていた。

そんな彼女が今日は珍しく足を止めて、私のほうを見ている。


よほど私が間抜けな顔をしていたのだろう、

急に話しかけてごめんなさいね、と彼女は断りを入れ、


「今年の凧の日、私が企画担当なんですよ」

と続けた。


「はあ」

「結構綺麗にできたなぁって思ってたんですけど、難しそうな顔でずっと凧のことを見てる方がいるから、気になって……」


それは悪いことをしたなと思い、彼女の名誉のためにも、私は弁明することにした。


「違うと言ったのはその凧のことです」

「凧?」


彼女は旗を見上げて、少し首をかしげた。


「何か変なところ、ありますか?」

「いえ、きっとおかしくないんでしょう、ただ……私の知っている凧は、こんなふうではなかった」

「知っている、って?」


再度問いかけられ、一瞬言葉に詰まる。

ああ。この説明は、いつも少しだけ面倒だ。


「私は、つい最近まで眠っていたんです。コールドスリープで」


彼女はすぐに察したように頷いた。


「ああ!コールディだったんですね」


私のような境遇の人を指して、今世代ではコールディと呼んだりする。この言葉を使われるとき、大抵憐れみや、若干の差別意識がセットになってついてくる。この世界から断絶されたような気がして私はこの言葉が苦手であったが、彼女のその言い方は拍子抜けするほどに軽やかで、私は少しだけ肩の力が抜けた。きっと若い世代の子たちにとっては、ただの言葉なのだろう。


「そうです。ただ、そう呼ばれるのは、まだ慣れませんね」

「嫌ですか?」

「いいえ。ただ……この世界では、私は少し古い人間ですから」

やや自虐がすぎるかな、と思ったが、彼女は意にも介さず軽やかに答えた。


「ふふふ、ヴィンテージですね」


かなり際どい発言ではあったのだけれど、あまりに毒気のない彼女の声のトーンに、私はつい顔を綻ばせてしまった。


「なにせ2080年ものですからね」


なんて、私の下手なジョークにも彼女は笑って返してくれる。ああ、彼女と話すのは、楽しい。


「もし良ければ、2000年前の……凧のことについても、教えていただけますか?」


そう彼女が言うので、近くのスタンドで温かい飲み物を買って、私たちは近くのベンチに腰掛けた。近づいた距離に最初はどぎまぎしたが、ほどなく緊張もほぐれ、会話も弾んだ。


「……糸を引くと、凧が上がるんですか?」

「そう、そうなんです。引っ張ることで風を捕まえるんです」

「面白そう!でも、ちょっとコントロールが難しそうですね」

「それが醍醐味なんです。凧は、不安定に飛ぶものです。あれは……吊るされているだけの布は、ただの旗だ」


そう言いながら、私はつい力が入ってしまった。


「飛ぶんです。風に乗って。もっと高く」

「高く?」

「ええ。人の手から離れそうになるほど」


私は思わず、両手で糸を引く仕草をしていた。

彼女はそれを見て、くすっと笑う。


「かわいいですね」

「な、なにがですか」

「凧を引くおじいさん」


胸の奥が、少しだけ跳ねた。

八十年も生きてきたというのに、こんなふうに動揺する自分がいることに、私は驚いた。


「すみません、まくし立ててしまいましたね」

「いいんですよ。貴方の好きな風景のことを知れて、私、嬉しいです。でも、」


でも、私はこの景色も好きだって思うんですよ。そう言って、彼女は旗の列を見上げた。


「高いところに何かがあると、なんとなく気持ちも上を向く気がしません?」


私は彼女の横顔を見た。彼女の、今の景色への愛情が伝わってくる。

そして私は思った。空を自由に飛ばなくても、ただの旗だったとしても、人々はその「凧」を上空に見やり、上を向く。きっとその熱量は、今も昔も変わらない。

私はきっと、足元ばかりを見ていた。過去ばかり眺めて今を生きていなかった。世界を断絶していたのは、私の方だったのだ。

私は「凧」に視線を向けた。色とりどりの布が所狭しと並んでいる。綺麗だな、と思った。私はこのとき、ようやく上を向くことができたのだと思う。


「……もし、風があったなら」


私は思わず言っていた。


「あなたと一緒に、凧を揚げてみたかった」


彼女は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「素敵ですね。……ああ、このコロニーでも風が立っていればよかったのに」


少し照れたようなその顔を見て、私は思った。綺麗だな、と。


「でも、ここにはあの凧があります。だから私は、これからは一緒に、あの凧を見上げたい」


そうして二人は並んで、同じ布を見上げる。


高く、遠く、どこへも行かない凧。

けれど私の心は、確かに浮き上がっていた。


「ええ、これから毎年見上げましょうね。だって今日は……」


1月14日は国際凧の日。

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