第4話 休日の手持ち無沙汰

 王都の下町。休日の喧騒の中、ゲイルは市場の果物屋の前で立ち尽くしていた。

 彼の右手には、巨大な完熟カボチャが握られている。


「……違う」


 ゲイルはカボチャを鷲掴みにしたまま、苦渋の表情で呟いた。

 重さはいい。ずしりと来る3キログラム。

 だが、決定的に何かが欠けている。


(硬すぎる……。それに、冷たい。脈動がない)


 彼の右手は、すでに女王中毒に侵されていた。

 掌が覚えているのだ。あの、とろけるような粘膜質の肌触りを。指が埋まるたびに音を立てて滲み出る、濃厚な脂汗の吸着感を。

 このカボチャには、指を呑み込む深淵がない。


「おい、あんちゃん。買うのかい?」

「……いや」


 ゲイルはカボチャを棚に戻すと、虚ろな目で右手を握りしめた。

 指の隙間を通り抜ける風が寒い。

 彼の右手は、温かく湿った肉の鞘に収まることを渇望し、痙攣していた。


 一方、王都のお洒落なカフェテラス。

 ジュリアンは、とある令嬢と向かい合っていた。デートである。

 だが、彼の視線は彼女の瞳ではなく、その胸元――正確にはブラジャーのストラップ一点に注がれていた。


「ねえ、ジュリアン? 聞いてる?」

「……ああ、聞いているよ、マリー。だが、君。そのワイヤー、左側が3ミリ浮いているね」

「えっ?」

「負荷分散がなっていない。その角度では、乳房の下部組織が鬱血してしまう。見てごらん、君が動くたびに、カップの中で肉が助けてと悲鳴を上げているのが僕には聞こえるんだ」


 ジュリアンは無意識に左手を伸ばし、空中でクネクネと指を動かした。

 エア・ハンドリングだ。

 彼の脳内では、彼女の柔らかな膨らみをどう掌で包み込み、どのベクトルへ流せば重力から解放できるか、完璧なシミュレーションが行われていた。


「君の胸は……そう、もっと自由であるべきだ。例えば僕のこの左手なら、君の皮膚の伸縮率に合わせて、まるで第二の皮膚のように追従できる……」


 ジュリアンの目が怪しく光る。

 彼は無意識に、テーブルの上の水の入ったグラスを左手で包み込んでいた。

 その指使いは、あまりにもいやらしかった。

 グラスの表面についた水滴を、指の腹で撫で回し、掌底で吸い付き、繊細かつ執拗に愛撫している。


「……最低」

「えっ?」

「顔がいいから着いてきてみたら……ただの変態野郎だったのね! さようなら!」


 バシャン、と水をかけられ、ジュリアンは取り残された。

 滴る水を拭いもせず、彼は悲しげに自分の左手を見つめた。


「……違うんだ。僕の手はもう、30キロ級の神の果実以外では満足できない体になってしまったんだ……」


 夕暮れ。路地裏の酒場。

 カウンターの隅で、ゲイルとジュリアンは並んでエールを煽っていた。

 結局、行き着く先はここしかなかったのだ。


「……で、フラれたのか」

「ああ。だが、彼女にとっても良かったのさ。僕の左手は、あまりにも高感度になりすぎている」


 ジュリアンはジョッキの結露を、まるで女王の汗を拭うかのように愛おしげに指でなぞった。


「ゲイル、昨日の湿気を覚えているか?」

「忘れるわけがない。湿度80%。陛下の谷間はサウナ状態だった」


 二人の話題は、自然と業務報告という名の官能的な回想へとシフトしていく。


「特に、あの午後3時の休憩中だ。陛下がソファに深く沈み込んだ時……右乳の底が、俺の手のひらと完全に密着した」


 ゲイルが夢見るような目で語り出す。


「真空状態だ。手相の溝一本一本まで、陛下の柔肌が入り込んでくるんだ。逃げ場のない熱気。ムッとするような、甘く酸っぱいミルクと香油の香り……。指を動かすたびに、粘りつくような音がした」

「分かるよ、ゲイル。左側も同じだった」


 ジュリアンが身を乗り出す。


「あの時、僕は指先で感じていたんだ。陛下の皮膚が汗でふやけて、いつもより数倍柔らかくなっていたことを。少し力を入れただけで、指が肉の奥深くまで沈んでいく感覚……。まるで底なし沼だ。引き抜こうとすると、肉が指に絡みついて離さないんだよ……」

「ああ……。そして、あの重量感だ」


 ゲイルは右手で、見えない何かを空中で揉む仕草をした。

 大きく指を開き、下から掬い上げ、重みに耐えるように手首を固める。


「ただ重いだけじゃない。生きているんだ。血流が掌底を叩く。俺の右手が支えているのは、脂肪の塊じゃない。熱を持ったマグマだった。それが、手の形に合わせて変形し、広がり、垂れ掛かってくる……」


 二人の呼吸が荒くなる。

 酒のせいではない。手に残る、あの圧倒的な肉の記憶に酔っているのだ。


「なぁ、ジュリアン。正直に言え。……今、触りたいだろう?」

「……愚問だな、ゲイル。手が震えているよ。あの熱さが、あの重みが恋しくて、指先が痺れているんだ」


 ジュリアンは自分の左手を、恋人のように見つめた。


「一般女性の胸では軽すぎる。果物では硬すぎる。僕たちはもう……あの国家級の質量に押し潰され、窒息しそうなほどの肉の壁に埋もれていないと、生きた心地がしないんだ」

「……業が深いな、俺たちは」


 ゲイルはため息をつき、ジョッキを置いた。

 その時、カウンターの奥から豊満な女将が料理を運んできた。

 ドンッ、と大皿が置かれる衝撃で、女将のそこそこの胸が揺れた。

 瞬間。ゲイルの右手とジュリアンの左手が、反射的に伸びた。

 空中で、女将の胸を支える受け皿の形を作り、寸前でピタリと止まる。


「あら、やだ。何よあんたたち」


 女将が呆れた顔で見る。

 二人の手は、完璧な聖騎士の構えをとっていた。

 指の角度、手首のスナップ、衝撃を吸収するための肘の屈伸。すべてが芸術的なまでに完成されたフォーム。


「……す、すまない。職業病だ」

「揺れるものを見ると、体が勝手に……保護しにいってしまうんだ」


 二人は真っ赤になって手を引っ込めた。

 そして、顔を見合わせ、力なく笑った。


「帰ろう、ゲイル。明日は早番だ」

「ああ。……明日は陛下、新しいシルクの拘束衣を試すらしいぞ」

「本当か? 滑るぞ、あれは」


 ジュリアンの目が、期待と興奮でギラリと光った。


「滑る肌を、汗と握力でねじ伏せる……。最高の難易度じゃないか」

「腕が鳴るな。……あるいは折れる、か」


 二人は店を出た。

 その背中は、明日待ち受けるであろう肉の雪崩への恐怖と、隠しきれない歓喜に震えていた。

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