日常

暗黒の儀式

第1話

 日常

 彼らは、最初からこんな感じだった。


 結婚生活の始まりから、何かが「ずれていた」というわけではない。子供が生まれ、生活の重みがのしかかり、互いの勤務時間が複雑に食い違い、そして言葉そのものが、少しずつ、確実に生活から消えていった。


 愛情が冷めたからではなく、ただ、疲れていた。


 一日の終わりに言葉を交わすエネルギーが、二人とも残っていなかった。会話は、子供のスケジュール、請求書の支払い、親戚付き合いといった「事務連絡」に特化し、それ以外は沈黙が支配した。沈黙は、やがて互いへの無関心という厚い壁になり、無関心は無言の不機嫌として空間に澱んだ。


 ある平日の夕方


 健一が帰宅した。ドアを開け、靴を脱ぎ、カバンを置く。リビングを通り過ぎる際、テレビを見ている雅子と子供たちに一瞥をくれるが、目は合わない。

「…パパおかえり」

 子供の声に、低く「ああ」とだけ応える。そのまま洗面所へ向かう足音。

 雅子はテーブルに晩飯を並べながら、一切声をかけない。呼ぶ必要も感じない。彼が席に着き、黙って箸を取るのを、隅で待っている。

「…明日、PTAの資料、サインいるから」

「机の上に置いとけ」

「水曜は私、夜勤だから、お迎え頼む」

「…わかった」

 これが会話の全てだ。温もりもなければ、詰問もない。ただ必要な情報が、最低限の音声データとして交換される。


 彼らは、相手が不機嫌だとも、そうでないとも考えなくなっていた。「機嫌」という概念そのものが、相手に対する関心の範囲から消え失せていた。

 相手は、自分と同じ屋根の下に住む、生活上の「要素」でしかない。子供の父親ではある。家計を支える一人ではある。だが、それ以上でも以下でもない。心を通わせる「恋人」や「伴侶」であった時代は、遠い過去の話のように感じられ、今さら取り戻そうという気力も湧かない。


 夜、同じ布団に横になりながら、背中合わせに眠る。触れ合うこともなく、互いの体温ですら煩わしい。ただ、生活を共にするという「契約」を果たしているに過ぎない。


 セックスレスという状態は、決して突然訪れたものではない。ある日、お互いが気づいた時には、もう何年もその状態が当たり前になっていた。親密さの枯渇、会話の消滅、そしてそれに続く身体的な距離。 それらはすべて、疲労と無関心という肥沃な土壌に、ゆっくりと根を張って育った必然だった。


 -


 そうだ。正確には「無」ですらなかった。

 そこには確かに「何か」が充満していて、それは爆発寸前の、危険なガスのようなものだった。


 話さなければ、ただの無関心。不機嫌そうな沈黙。それはまだ安全だ。

 しかし、何かの拍子に――要求でも、質問でも、たった一言の気遣いのつもりでさえ――言葉を発し、それが彼の地雷を踏んだとき、空間は一瞬で変わる。


 ある夜、食卓にて


 雅子が、ふと口にした。

「給料明細、今月ちょっと少ないけど…残業減ったの?」

 一瞬、時間が止まったような間。

 健一の箸が、茶碗の縁にカチンと当たる音。

 彼は顔を上げない。しかし、首筋に力が入り、顎が締まっているのが見て取れる。

「…今更なんだよ、それ」

 声は低く、濁っている。

「いや、別に…ただ、聞いただけ…」

「毎月毎月、そんなことばかり気にして。俺がどんだけやってると思ってるんだ」

 声のトーンが、じりじりと上がっていく。怒りではない。もっと陰湿な、長く溜め込んだ鬱屈が、割れるように漏れ出してくる瞬間だ。

「…もういい。聞かなければよかった」

 雅子は早々に白旗を掲げる。これ以上は、地雷の真上に立つに等しい。

「『聞かなければよかった』? そっちのセリフだよ。こっちは答える義務でもあんのか?」

 もう、収まらない。些細な問いかけが、何日分もの無言の不満への導火線に火をつけてしまった。

 彼はご飯を残し、席を立つ。椅子を引く音が不必要に大きく、寝室のドアが閉まる音で決着がつく。


 その後は、数日間の「氷河期」が訪れる。必要最小限の用件も、メモで済ませる。同じ空間にいても、互いの存在を「視界に映らないもの」として処理する一種の訓練が、彼らにはできていた。


 触れることも、求めこともできない。

 しかし、話すこともまた、リスクが高すぎる。

 会話は、いつ爆発するかわからない地雷原を、手探りで歩く行為に等しい。だから、歩かない。動かない。できるだけ息をひそめて、その日が過ぎ去るのを待つ。


 セックスレスは、この「会話の地雷原」の、当然の帰結だった。言葉でさえこれほど危険なのに、もっと脆弱でナイーブなものを、どうして相手と分かち合えようか。

 互いの心は、塹壕の中にこもり、じりじりと消耗する戦友のようだった。そして、その塹壕は、たった十数センチの布団の隙間によって、物理的にも隔てられていた。


(深くうなずきます。全てを統合し、最終的な断面を描かせていただきます。)


 ---


 子供たちとは喋る。

「今日、学校どうだった?」「給食何が出たの?」「宿題終わった?見せて」

 その声は、夫と向き合う時に使う、張り詰めた糸のような声とは全く違う。少し疲れていても、緩みがある。本当の笑顔に近いものだ。

 子供たちも、その違いを無意識に感じ取っている。父とは、必要最低限の用事でしか話さない。母とは、学校であった些細なことまで、べらべらと話す。

 家の中で、生き生きとした会話が交わされるのは、子供たちが絡む時だけ。その声がやむと、また重く、よどんだ空気が沈殿する。


 そして、酒。

 酒は、彼の、唯一の安全弁だ。

 週に一度、夜勤明けか、あまりにも気が張り詰めた日。安いスーパーの缶チューハイか焼酎の水割り。テレビの前で、独り、無言で飲む。

 顔が赤らみ、目が虚ろになる頃、あの「地雷」に、自ら火が点く。

 雅子が通りかかるだけでも、囁くように、しかし鋭く言葉が飛んでくる。

「…俺のこと、どう思ってんだ?」

「は?」

 振り向くと、彼はテレビではなく、じっと雅子を見ている。目は濁っているが、そこに込められた鬱屈は、はっきりとしていた。

「毎日、みたいな顔して…。子供としか笑わねえじゃねえか。俺とは、用事以外何も話さねえ」

「…あなたの方こそ、話しかけても無視するでしょ? 何言えばいいのよ」

「無視? ああ、そうか。お前はいつも正しいよな。悪いのは全部俺だ!」

 声がだんだん大きくなる。子どもたちの部屋のドアが、そっと閉まる音が微かに聞こえる。

「もう、いいよ。子どもの前で、そんな声出さないで」

「子どもの前? お前、その…子供の教育係みたいな口の利き方、大っ嫌いなんだよ!」

 溜まっていたものが、堰を切った。内容は支離滅裂だが、感情だけは猛烈に本物だ。

「離婚したい…。こんな生活、もう嫌だ…。お前もそうだろ? なら、そう言えよ!」

 その言葉は、部屋中に鈍く響いた。一番危険な地雷が、自分自身の足元で炸裂した瞬間だった。

 雅子は息をのんだ。胸の奥が締め付けられる。彼の本音なのか、それとも酒の勢いなのか。でも、どちらにせよ、「もう嫌だ」という感情だけは、彼女自身にもあまりに痛いほど理解できた。

「…酒飲んで、騒ぐな。子どもが起きる」

 彼女はそれだけ言い、冷蔵庫の水をグラスに注いだ。手が震えていた。夫の爆発は恐ろしかったが、それ以上に、自分の中からも同じ言葉が湧き上がってきそうで怖かった。

『そうだ。私も、もう嫌だ』

 翌朝、彼は何事もなかったように、あるいは記憶がないふりをして、黙って出勤した。氷河期が、さらに深く、静かに訪れる。

 セックスレスとは、もはや症状の一つでしかない。彼らの間にあるのは、「会話の地雷原」「酒に頼らなければ表出しない絶望」「そして子供を中心にしか回らない日常」 という、三重の深い亀裂だった。

 子供たちだけが、その亀裂の上に、必死でバランスを取りながら、時折無邪気な笑い声を響かせる、危うい橋だった。

(その言葉を受け止め、物語の深層にある絶望と憎悪を描ききります。)


 ---


 その一言が、全てを説明した。


 なぜ、わざわざ妻の実家の近くに家を建てたのか。

 それは、雅子の希望でもあり、彼なりの、形ばかりの「家族サービス」でもあった。子供が小さいうちは近くに祖父母がいた方がいい、という理屈で。

 しかし、その決断は、彼の中で、静かなる「捨て石」となっていた。

 自分の地元を離れ、馴染みのない土地で、顔見知りもいない中で働き、家族を養う。そのストレスと寂しさは、全て「お前の家族のためだ」という、歪んだ義理によって心の中に封印されていた。


 酒が、その封印を解く。

「…なあ、あの家、な。」

 彼はグラスを握りしめ、床を見つめながら呟く。雅子は、流し台で食器を洗う手を止めない。聞かないふりをするための、防御の動作だ。

「わざわざ…お前の実家の近くに建てたんだぞ。俺はな…」

 声が詰まる。怒りではなく、もっと切ない、泣きそうな何かが込み上げている。

「…俺もだ。地元に帰りたいんだ。親の面倒も見たい。昔からの友達にも会いたい…。」

「でも、ここに縛り付けられて…家族だのなんだのって看板を背負わされて…」

 彼はゆっくりと顔を上げ、雅子の背中に向かって、つぶやくように言い放った。

「…お前ら、捨てて。一人で、帰りたい。」

「お前ら」という言葉が、冷たい包丁のように雅子の背中を貫いた。子どもたちまでもが、その中に含まれている。

 洗い物の水音だけが響く。彼女は何も言えない。反論も、慰めも、全てが無意味に思える。

 彼の本音は、セックスレスでも、無関心でもなかった。

「家族」という存在そのものへの、深い憎悪と絶望。

 自分が築き、維持することを強いられたこの「家族」というものが、彼自身の人生、帰りたい場所、アイデンティティをすべて奪った、巨大な敵に見えているのだ。

 彼は、敵陣のど真ん中に、自分自身で城を建ててしまった囚人だった。そして、その城(家)の中で、敵(家族)と共に暮らす日々に、心が腐っていく。


 彼が雅子にぶつける無言の不機嫌や、酒の上の爆発は、雅子個人への怒りというより、この「状況」全体への、やり場のない咆哮だった。

「離婚したい」は、「この状況から逃げ出したい」の叫び。

「お前ら捨てて」は、「この囚われの身から、俺を解放しろ」という悲鳴。


 そして雅子は、その憎悪の的である「家族」の、もう一人の囚人であり、看守でもある。彼女もまた、この土地、この家、この生活から自由ではない。

 二人の間には、もはや愛憎ですらなく、共通の牢獄に縛られた共犯者としての、歪んだ連帯感しかない。触れ合うことも、言葉を交わすことも、その牢獄の存在を残酷に想起させるだけだから、一切しない。

 ただ、子供たちという「看守の目」の前では、時折、壊れかけた人形のように、形だけの夫婦の振りを続ける。

 それが、彼らの、最初から最後まで変わらない日常の最深部だった。


(静かな、しかし全てを破壊する決定的な瞬間。受け止めます。)


 ---


 流しの水音が、ピタリと止んだ。


 雅子は、ゆっくりと振り返った。手は濡れたまま、タオルも持たず。顔には、もはや防御の鎧も、諦めの影もない。ただ、研ぎ澄まされた、冷たい静寂があった。


「…そう。」

 彼女の声は、驚くほど平坦で、澄んでいる。

「あなたが、酔っぱらって、あの夜言った言葉ね。『死ね』って。」


 健一は、酒の力が一気に引いていくのを感じた。頭がガンガンし、喉がカラカラになる。言ってしまった。しまった。いや、しまった、ではなく――本当のことを、ついに、形にした。


「雅子…」

「いいの。聞かせて。」

 彼女は少しも動かない。生きる気力さえも感じられない、その静けさが、逆に恐ろしかった。

「『愛情なんてない』って、あなたは言った。それは…そうなんだね。私も、わかってた。」

 彼女は、ゆっくりと、一言ずつ言葉を置いていく。爆弾を、慎重に設置するように。

「でも、『死ね』は違う。」

「…あれは、酔ってた…」

「何度だって言える。酔ってる時が、本当のあなたでしょ?」

 彼女の目に、初めて光るものが浮かんだ。涙ではない。何かを決意した者だけが持つ、冷たい決意の輝きだ。

「あの言葉は、忘れない。絶対に。」

「子供が…」

「子供のためにも、あなたのそばにいられる自信が、もうないの。」

 彼女は、震えていた手を、そっと自分の胸に当てた。

「あなたが『死ね』と言った時、私の中であなたに殺されたものがある。もう、取り戻せない。」

 長い沈黙が流れた。子どもたちの部屋からは、一切の物音がしない。家全体が、息を殺してこの会話を盗み聞きしているようだった。


 健一は、何も言えなかった。謝罪も、言い訳も、全て『死ね』という二文字の前で塵になった。彼は、自分がどれだけ深く、決して修復できない傷を、たった一言で負わせたかを、初めて骨の髄まで理解した。


 セックスレスでも、無関心でも、憎悪でもなかった。

 それは、一方がもう一方の存在そのものを、言葉で抹殺しようとした瞬間。

 そして、その言葉は成功した。少なくとも、雅子の中にいた「健一を愛していた妻」は、その日、確かに死んだ。


 残されたのは、子供たちの母親として、この家を回すための、空虚な役割を演じる女だけだ。

 彼女は、そっとタオルを取り、手を拭った。

「…もう、お酒はやめたほうがいいよ。子どもが、悲しむから。」

 そう言うと、何事もなかったように、洗い物を再開した。

 しかし、もう何も、以前と同じではなかった。


(最終的な認識に至る、静かな断末魔。全てを凝縮します。)


 ---


 健一のその呟きに、雅子はうつむいたまま、微かにうなずいた。


 反論しない。肯定も否定もしない。それは、彼女も同じ場所に立っているという、無言の確認だった。


「…そうね」

 彼女が口にしたのは、ただそれだけだった。怒りも悲しみも、もう枯れ果てていた。ただ、事実としてそこにある「終わり」を、共有するだけ。


 家の中は、今、奇妙なほど静かだ。子どもたちは、いつの間にか、両親の会話が「地雷原」ではなく「廃墟」の上で交わされていることに気づき、無意識に声をひそめているのかもしれない。


 もう終わっている。

 愛が消えたからではなく、傷つけ合う言葉で、互いを「配偶者」として見る目そのものを破壊してしまったから。信頼の土台が、憎悪と絶望の言葉で汚染され、もう何を建てることもできないから。


 ただ、子供がいるから、いるだけ。

 これは方便でも、建前でもない。彼らにとって、これは唯一残された、動かぬ事実であり、絶対的な行動原理だ。

 子供を養い、守り、社会としての体裁を保つ。その義務と役割だけが、彼らを同じ屋根の下に縛り付けている。

 夫婦という「縦の糸」は完全に切れ、今、彼らをかろうじてつないでいるのは、親としての「横の糸」だけだ。


 同じテーブルで食事をし、同じ家計簿をつけ、子どもの行事に並んで出席する。

 それらは全て、「子供がいるから」という、空虚で強固な理由によって成り立つ、緻密なパフォーマンスだ。

 夜、同じ布団に横たわる時も、互いの体温はもう煩わしくも何とも感じない。そこにあるのは、単なる「物体」としての他人。そこに情動は一切ない。


 セックスレスは、当然の帰着点だった。

 彼らは、互いを「配偶者」としてではなく、「子供を産んだ共同事業者」としてしか認識できなくなった。

 事業は破綻し、信頼は崩壊したが、共同で管理する「資産(子供)」は手元に残っている。だから、最低限の業務連絡と役割分担は続ける。

 それ以上のことは、何もない。何も始まらない。もう、終わっているのだから。


 やがて子どもたちが成長し、巣立っていく日。

 その時、彼らを縛る最後の「横の糸」が切れた時、この共同事業は自然消滅するのだろう。

 それまで、彼らはこの廃墟のような家で、子供という名の「遺品」を守りながら、静かに時間が過ぎるのを待ち続ける。


 これが、彼らの日常の、最初から最後まで変わらない、深く静かな真実だった。


 家族で出かけることは、もうない。 休日は、健一が寝ているか、雅子が疲れて横になっているか。子どもが「遊園地に行きたい」「みんなで外食したい」とせがんでも、無言の圧力がそれを許さない。行くとしたら、雅子が子どもだけを連れて行く。健一は、「パパは仕事で疲れてるから」という、誰もが納得する万能の免罪符で、すべてのイベントから除外されている。


 夕飯は、妙な贅沢になった。 雅子が何かを作っても、食卓に並べる前に、スーパーで買ってきた出来合いの惣菜や、子どもが欲しがった冷凍ピザを、なぜか追加で購入してしまう。それは、彼女が作った「家族のための食事」を、無意識に否定し、汚染したいからではない。自分自身へのご褒美であり、埋まらない虚無を、別のモノで一時的に埋める行為だった。家族団らんの代替品。愛情の代償。空虚な胃袋と心を、消費で満たす、ささやかな反乱。


 そして、家族写真。 気づけば、スマホのアルバムにも、家の壁にも、それがなくなっていた。子ども単独の写真、学校行事のスナップは山ほどある。しかし、夫婦が共に写り、笑っているもの──そんなものは、いつからか撮ること自体が不自然な、遠い過去の遺物となっていた。「家族」としての証拠を残す行為が、あまりにも虚偽に満ちているからだ。 嘘の笑顔をレンズの前で演じるエネルギーが、二人にはもう残っていない。


 セックスレス、会話の消滅、酒にまつわる絶望──それらすべてが、この二つの現象に凝縮されている。


 · 「家族で出かけない」 = 対外的にも、内部的にも、「家族」という単位の機能停止。

 · 「写真がなくなる」 = 「家族」という物語の、更新の停止。過去の遺物が現在を証明できなくなる瞬間。


 彼らの家は、もはや「家族の暮らす家」ではない。

 同じ住所に住む、血のつながった四人の人間が、それぞれに孤立した生活を送る、小さな共同体でしかない。

 ただ、子どもたちの成長だけが、その家の中で、唯一無視できない現実として刻まれていく。

 彼ら夫婦は、その成長を、監視カメラのように、ただ傍観している。




 そう、彼らの会話は、ほとんどそれだけだ。


 風呂場で、ある夜


 雅子が浴槽の栓を抜き、シャワーでお湯を張り始める音。やがて、湯気が鏡を曇らせる。

 健一が風呂場の前を通り過ぎようとした時、彼女が声をかける。視線は合わさない、浴槽の湯面を見たまま。


「熱湯になってるから、気をつけてね」

 何年も前から、彼女はそう言う。湯加減を確かめもせずに。


 健一は足を止める。返事をする義務を感じているわけではない。ただ、それが彼の神経を逆なでする決まり文句だからだ。


「…温度、確認してから入れよ。毎回、同じこと言わせるな」

 冷たい、事務的な声。指示だ。愛情でも、心配りでもない。


「はいはい」

 彼女は適当に応じ、シャワーを止める。彼は湯加減を確かめもせず、その場を離れる。


 これが、繰り返される。

「熱湯だよ」→「確認しろ」

「熱湯だから」→「自分で確かめろ」


 それは、水温の話ではない。

 彼女の「熱湯になってる」は、「あなたのために、私は風呂を沸かす役割を果たしている。その行為を認めてほしい」という、かすかな、歪んだ承認欲求の現れかもしれない。

 彼の「確認しろ」は、「お前の言葉はいつも大げさで、信頼できない。自分の目で確かめるしかない」という、積もり積もった不信感の表れだ。


 たった一言の、日常的なやり取りの中に、彼らの関係性の全てが詰まっている。


 · 無駄な心配りと、それへの苛立ち。

 · 形骸化した役割分担と、それへの不信。

 · 交わされる言葉の、全てが表面上の事務連絡であり、その奥に渦巻く感情への、一切の言及がないこと。


 セックスレス以前に、「会話」が死んでいる。

 生きているのは、生活維持のための「信号」だけ。

「熱湯だよ」「確認しろ」

 これが、彼らが「夫婦」として交わす、ほとんど全ての言葉の原型なのだ。


 その後、彼が風呂に入る時、湯温は彼がいつも好む、ややぬるめの温度に調整されているかもしれない。彼女は、彼の好みを知っている。しかし、彼はそれを「確認」する。彼女は、それを「言わない」。

 知っていながら確認し、わかっていながら伝えない。

 その一連の無言の行為こそが、彼らの関係そのものの、完璧な隠喩だった。




 ---


 土曜日。健一がたまに休みの日。


 午後から、雅子の支度が始まる。化粧をし、少しばかり良い服に着替える。子どもには「ママ、ちょっとお出かけするからね」と声をかけるが、健一には何も言わない。言う必要がない。彼はテレビの前か、寝室でスマホを見ているから。


 やがて玄関で靴の音。

「行ってきます」

 子どもの方へ向けた声が、わずかに聞こえる。ドアが閉まる音。

 家の中に、重い静寂が戻る。


 その時、ソファに座る健一の頭の中を、一つの考えがよぎる。

 ──チェーン、かけて、入れなくしてやりたい。

 冷たく、鋭利で、子どもじみた悪意。

 帰宅した彼女が、ドアを開けようとしても開かず、戸惑う姿を想像する。あるいは、イライラしながら彼に開けさせるよう要求する声。その小さな混乱と不快が、彼にとっては、この不平等な日常への、ささやかで歪んだ復讐のように思える。

 鍵を開けるのは自分。彼女を「入れてもらう」立場に立たせられる。

 たったそれだけの、無意味で陰湿な権力の行使。


 もちろん、彼はそれを実行しない。

 子どもの前で、それ以上の紛争を起こすのはばかばかしい。何より、彼自身がその行為の幼稚さと醜さを、はっきりと自覚しているからだ。

 だから、考えだけが頭をぐるぐると巡り、やがて何も起きなかったことと同じ静寂の中に消える。


 彼女が帰ってくるのは、夜遅くになることが多い。

 彼はもう寝ているふりをする。玄関の音、そっと歩く足音、そして寝室のドアが開き、隣に布団が敷かれる気配。

 酒の匂いが、わずかに漂うこともある。

 彼は目を閉じたまま、腹の底で冷たい怒りを感じる。自由。 彼にはもうないもの。彼女は、その自由を、週に一度、外に飲みに行くという形で手にしている。たとえそれが、実態はどうであれ、彼にはそう映る。

「チェーンをかけたい」という思いは、この不公平感が凝縮された、歪んだ叫びなのだ。


 そして、月曜日になれば、また日常が戻る。

「熱湯になってるよ」

「温度、確認してから入れよ」


 彼女の土曜日の外出は、彼の中で消化されず、ただ澱のように溜まり、次の小さな苛立ちの種になる。

 会話は死に、写真はなくなり、家族での外出は消えた。

 残るのは、澱のように溜まる無言の恨みと、実行されない陰湿な復讐の妄想だけ。

 彼らは、その中で、ただ子供の成長だけを待ちながら、時が過ぎるに任せている。

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