第22話
私は庭園を、当てもなく歩いていた。
あれから本邸には戻らず、別邸で過ごしていた。
形式上、罰を受けている立場でいなければならない。
それに―――今は、ルミナの傍にいるべきではない気がしていた。
別邸にまで届く情報は、限られている。
けれど、噂というものは風に紛れて、都合よく壁をすり抜けてくる。
「……聞いた?」
「ええ、もう正式だそうよ」
「第三王子殿下と、ルミナ様の婚約ですって」
庭園の手入れをする使用人たちの声が、風に乗って届いた。
手が、一瞬だけ止まる。
予想していなかったわけじゃない。
むしろ、そうなると分かっていた。
「…そう」
私は、誰に聞かせるわけでもなく呟く。
公には、まだ発表されていない。
教会と王家、公爵家の間で話しが整った段階だろう。
だからこそ、こうして"噂"の形で先に広がる。
―――聖女は、王家に迎えられる。
それは祝福であり、同時に逃げ場のない檻でもある。
私は、そっと目を伏せた。
「ネメシア様」
名を呼ばれ、振り向くとクロードが立っていた。
「公爵様が執務室でお呼びです」
「…わかったわ」
私は執務室へと足を運んだ。
公爵の執務室は、相変わらず静まり返っていた。
重たい扉を閉めると、外の音がすべて遮断される。
机に向かっていた公爵は、私を見るなり書類から視線を上げた。
「聞いているな」
前置きも、確認もない。
「…噂で、少し」
そう答えると、公爵は短く息を吐いた。
「第三王子との婚約は、すでに内定している。教会、王家、公爵家――三者で合意は取れた」
「正式な発表は?」
「準備が整い次第だ。時間の問題だろう」
淡々とした報告。
そこに、父としての感情はほとんど含まれていない。
「ルミナは?」
「聖女としての立場を理解している。……理解せざるを得ない、と言うべきか」
一瞬、公爵の言葉が鈍った。
それだけで、十分だった。
私は一歩、前へ出る。
「でしたら、公爵様。ひとつお願いがあります」
公爵の視線が、再び私を捉えた。
「今度は、何だ」
「私のデビュタントに―――ルミナと同時に行わせてください」
室内の空気が、わずかに張り詰める。
「…理由は」
「必要だからです」
私は、迷わず答えた。
「私が隣に立てば、必ず比べられます」
私は淡々と続けた。
「―――聖女と、問題を抱えた公爵令嬢。清らかな光と、噂にまみれた影。人は、必ず見比べる」
一拍置く。
「そして、比較の中でルミナは"選ばれる"」
悪女と並べば、聖女はより白く見える。
それが、社交界という場所の仕組みだ。
「私が悪くあればあるほど、ルミナは正しく尊く見える。聖女として目立たせるには、それが一番確実です」
視線を逸らさない。
だから、好かれなくていい。疑われて、噂されて、蔑まれて構わない。
私が堕ちることで、彼女が上がる。
それなら、この役は私にしかできない。
公爵は、しばらく黙って私を見つめていた。
秤にかけるような沈黙。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……なるほどな」
机の上で指を組み、視線を落とす。
「お前は、自分が嫌われる前提で話している」
「ええ」
即答だった。
「守られる立場に戻りたいのではない。矢面に立ちたい、と言っている」
公爵の口元が、わずかに歪んだ。
笑みとは言えない。
「愚かだ、と言えばそれまでだ。だが―――」
視線が、再び私を捉える。
「理屈は通っている」
室内の空気が、ひとつ重くなる。
「聖女を際立たせるために、悪女を置く。社交界が好む構図だ」
その言葉に、私は一切反応を見せなかった。
公爵は椅子から立ち上がり、窓の方へ歩み寄る。
「……いいだろう」
背を向けたまま、淡々と告げられる。
「お前の提案を受け入れる。ネメシア・ルーインハイト――公爵令嬢としてのデビュタントを、ルミナと同日に行え」
それは、撤回されることのない宣告だった。
私は、静かに膝を折る。
「承知しました」
公爵は、振り返らなかった。
私はその背を一度だけ見据え、何も言わずに執務室を後にした。
執務室を出て、廊下を進んでいたときだった。
「お姉様!」
少し弾んだ、聞きなれた声。
振り向くと、ルミナが小走りで近づいてくる。
「お父様とお話ししていたんですね。お邪魔してしまって…ごめんなさい」
以前と変わらない。無邪気で、距離の近い態度。
私は、立ち止まらずに答えた。
「用件は?」
その声に、ルミナが一瞬だけ目を瞬かせる。
「…別邸で過ごしていると聞いて。何か、大変な思いしてないかと思って」
心配するように、覗き込む視線。
昔と同じ仕草。
私は視線を合わせず、歩みを止めた。
「そのような心配は不要よ」
淡々と告げる。
「私は罰を受けている立場。それ以上でも、それ以下でもないわ」
「でも……」
ルミナは一歩、近づく。
以前なら、その距離を許していた。
「お姉様は、何も悪くないって―――」
「私が本当に悪くないと?」
被せるように遮る。
ルミナは言葉を失う。
「……本当はね」
私は、ようやく彼女を見る。
「貴女のことが、憎かったのよ」
声は低く、静かだった。
怒りでも、涙でもない。
ただ、線を引くための言葉。
「……なんで」
ルミナの声が、掠れる。
「どうして、そんなこと言うの……」
その顔が、ゆっくりと歪んだ。
「貴女は……私の"場所"を簡単に奪ったじゃない…」
ぽたり、と。
ルミナの頬を伝って雫が落ちる。
それを見た瞬間、胸の奥がきしむ。
私は視線を逸らした。
「―――それだけで、十分な理由でしょう?」
声は、冷たいまま。
これ以上、その顔を見ていれば、演じきれなくなる。そう分かっていたから。
幸いにもルミナはそれ以上、何も言わなかった。
「……」
私は振り返らない。
そのまま彼女を廊下に残し、歩き出した。
―――――――――
廊下に、足音だけが残った。
お姉様は、振り返らなかった。一度も。
呼び止めようとして、声が喉で止まる。
伸ばしかけた手は、空を掴んだまま下ろされた。
私は、その場から動けなかった。
胸が痛い。
さっき言われた言葉が、まだ耳に残っている。
――憎かった。
――場所を奪った。
そんなふうに思われていたなんて、知らなかった。
……それでも。
私は、ゆっくりと息を吸う。
お姉様は、私を突き放した。
でも、怒鳴らなかった。責め続けることもしなかった。
ただ、距離を取っただけ。
―――いつから、そう思っていたの?
私は、頬に伝う雫を拭き取る。
けれど。
ふと、思い出す。
去っていく背中。その横顔。
揺れた、耳元。
「……」
私は、思わず息を止めた。
小さな、深い赤の石が嵌められたピアス。
間違えるはずがない。
あれは、私が――お姉様に贈ったものだ。
私の誕生日の時に、お姉様へ渡した品。
あの事件があってから、お姉様と会う機会がなくて、着けていることを知らなかった。
私は、胸の奥で何かが静かに形を成すのを感じた。
―――ああ。
やっぱりお姉様は、嘘をついている。
私を遠ざけるための言葉。傷つけるための態度。
でも、本当に嫌っていたら。本当に私を憎んでいたら……。
あのピアスを、着けるはずがない。
「……ばか」
私は、小さく呟く。
こんな、証拠を残して。
そんなに、優しいくせに。
お姉様は、きっと自分を悪者にしている。
私が守られるように。
だったら―――
私は、信じる。
言葉じゃない。態度でもない。
あの、小さなピアスを。
「…私は、信じる」
誰に聞かせるわけでもなく、私は呟いた。
お姉様がどんな顔をしていても、どんな役を選んでも。
あの人は、私の姉だ。
そして―――
私が、味方でいると決めた人。
だから今は、追いかけない。
手を伸ばさない。
でも、決して離れない。
私は、そっと胸の前で手を握った。
―――私ができることで、お姉様を救う。
それが、私の選んだ道だ。
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