震える瞳の豆柴の小さな手

へのぽん

震える瞳の豆柴の小さな手

 お隣さんの豆柴は、散歩のとき、もこっとした胸を張って、アスファルトをカシャカシャ歩く。後ろから見ると焼きいたパンにまん丸い。

 ママと一緒のときもあれば、パパと一緒のときもある。曜日や時間によって交代で散歩しているらしい。

 春の昼のことだ。

 わたしはリビングのソファでうつらうつらしていた。


『……しなさいっ!』


 で、目が覚めた。マンションの壁越し、たまに叱られている音が聞こえる。今は玄関はよく響いた。


『……べなさい!』


 わたしはご飯かおやつをもらえるのかなと、掛け時計を見た。


 三時だ。


 わたしは紅茶を入れた。我が家の犬が死んでから十年くらいだ。思い出したかのように、キッチンカウンターに置いた写真を拭いた。


「忘れてたわね?」


 生きていれば、たぶんわたしのところの柴犬はそんな顔をする。


「犬を育てるのも大変なのよ」


 お隣さんのママとパパとは、会えばいつも挨拶をした。三十歳くらいで、小綺麗な夫婦である。

 わたしは散歩しようと思った。


 空が青いから。

 ……なんてね。


 寝る前に気づけばよかった。巣箱のようなマンションで暮らしていると外を見なくなる。


 わたしは玄関ドアを開いて、エレベーターホールできれいな毛並みの豆柴と会った。ママに抱かれて肩越しにわたしを見つめていた。


「こんにちは」とわたし。

「こんにちは。お買いものですか?」

「お散歩?」

「ええ。なかなかリードつけさせてくれなくて。聞こえてません?」

「わたしも豆柴飼ってたことあるからわかるの。あ、気に入らないことあるんだなとか。よくわたしたち見てるなと思うこともあるわ」


 豆柴はどこかしら震えているように思えた。わたしほママの肩に置いた手を触ろうとしたが、少し嫌がったのでやめておいた。


 一階までママさんとお天気のことを話して、玄関ホールを出たところで、お互い別れた。犬の潤んだ瞳は愛くるしい。わたしも犬を飼っていたからわかる。怯えている。ママさんと一緒だから耐えられている。


「隣のおばあちゃんよ?忘れられて悲しい。でもちょっと今日は気分じゃないかもね。また遊ぼうね」


 わたしは撫でないでいた。怯えているときに手を出すと、かぶっとやられることもある。


「わんちゃんにも気持ちはありますからね。また今度ね」


 わたしももう一度飼おうかな。

 でも責任とれないし。

 わたしの方が早く逝きそう。


 ゆっくり歩道を歩いた。犬は多くても小さくても、リードに繋がれた姿は気品がある。特によくしつけされていればなおさらだ。


 でもあの子の瞳……すでにママさんと犬は遠くを歩いていた。


「怖がらせたかな?」


 そんなことがあって後、しばらくパパとママに会わなかった。マンション暮らしが続くと、お互い何となしに出控えることもあるのだ。


 だからわたしも気にしてはいなかったが、ある日、警察が来た。どうやらパパとママは、日常から虐待をしていたらしいとわかった。


「で、わんちゃんは?」

「犬は署にいます」


 わたしが引き取ってもいいですよと話すと、二人の制服姿がわずかに後ろに逃げた気がした。ほんのわずかだが、戸惑いを隠していた。


「事件はご存知ではない?」

「虐待してた」

「自分たちの子どもをね」


 わたしはあの日の犬の怯えた瞳を思い出した。あの豆柴はいつも何を見ていたのだろうか。


 おわり


  






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