第2話 肉の手
扉を開けると、若い男が立っていた。
白い衣に身を包み、銀の杖を持っている。魔術師だ。ディアンより十は若いだろう。整った顔に、無邪気な笑みを浮かべている。
「失礼いたします。陛下にお目通りを願いたく」
ディアンは男を見つめた。見覚えはない。なぜ、この離宮を知っている。
「……陛下は客を取らない」
「どうしてもお伝えしたいことがございます」
若い魔術師は一歩も引かなかった。その目には、善意しかなかった。
「——何の騒ぎだ」
奥から王が現れた。銀の右腕が、朝の光を受けて輝いている。
魔術師の目が、その腕に吸い寄せられた。
「……素晴らしい」
魔術師が呟いた。
「銀の義手ですか。これほど精緻なものは見たことがない」
「この者が作ってくれた」
王がディアンを示した。魔術師が頭を下げる。
「匠の技ですね。——しかし」
魔術師は言葉を切った。何かを言いたげに、王の顔を見つめている。
「何だ。言ってみろ」
「……私の魔法で、本物の腕を再生できます」
空気が凍った。
「関節から関節へ、腱から腱へ。肉を蘇らせる術です。九日間かかりますが——成功すれば、温かい肉の腕が戻ります」
ディアンの心臓が止まった。
本物の腕。肉の腕。温かい腕。
王が銀の右腕を見下ろした。指を曲げ、手首を回し、肘を曲げる。本物と同じように動く腕。
次に、左手を見た。肉の手。温かい手。
「……本物の腕か」
王の声には、隠しきれない期待があった。
ディアンは何も言えなかった。言葉が出てこなかった。
「お前の腕には感謝している」
王がディアンを見た。蒼い目が揺れている。
「だが——本物の腕があれば、それに越したことはない」
ディアンは頷いた。頷くしかなかった。
王のためなら。王が望むなら。本物の方がいいに決まっている。
そう思おうとした。思わなければならなかった。
「やってくれ」
王が魔術師に言った。
◇ ◆ ◇
王と魔術師が奥の間に入っていく。
扉が閉まる。
一日目。
部屋の前を通るたび、中から声が聞こえた。王の声。魔術師の詠唱。何をしているのか分からない。分からないから、想像が膨らんだ。
夜、自分の手を見た。銀の腕を作り続けた手。火傷の痕、鍛冶の煤、節くれだった指。この手で、王の腕を作った。この手で、王に触れた。
二日目。
食事が喉を通らなかった。
——温かいな。お前の手は。
あの夜、王が言った言葉が蘇る。銀の手でディアンの手を握りながら、王はそう言った。あの声を、あの目を、何度も思い出す。
あの言葉は、俺だけのものだったはずだ。
三日目。
眠れなかった。あの部屋で、王と魔術師が同じ空気を吸っている。同じ夜を過ごしている。
扉一枚の向こうに、王がいる。
扉一枚が、七年より遠い。
四日目。
王の笑い声が聞こえた。
低く、柔らかく、嬉しそうな声。あの夜、ディアンと酒を酌み交わした時でさえ、あんな声は出さなかった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
五日目。
魔術師の顔を思い出す。無邪気な笑み。善意しかない目。悪意がないから、憎めない。憎めないから、苦しい。
あいつは王を救おうとしている。俺と同じだ。俺と同じことを、九日でやろうとしている。
六日目。
廊下の窓に、自分の顔が映っていた。頬がこけている。目の下に隈。唇が乾いている。
七年前、王に救われた時より酷い顔だった。あの時は、死にかけていた。今は——何だ、これは。
七日目。
俺の腕では、足りなかったのか。
本物には、敵わないのか。
七年かけて作った腕が、九日で要らなくなるのか。
——いや。
最初から、要らなかったのかもしれない。王が本当に欲しかったのは、本物の腕だ。俺の銀の腕は、それまでの繋ぎにすぎなかった。
八日目。
部屋の前に立った。
中から、王の声が聞こえた。穏やかな、満ち足りた声。
——温かいな。
その言葉が聞こえた気がした。聞こえるはずがない。でも、聞こえた。王が、魔術師に向かって、同じ言葉を——
扉に手をかけようとして、やめた。開けたら、壊れる。見たら、終わる。
九日目——
◇ ◆ ◇
扉が開いた。
王が出てきた。
右腕に——肉がついていた。
温かそうな、柔らかそうな、本物の腕。指が動いている。手首が回っている。肘が曲がっている。銀の腕と同じ動き。だが、銀色ではない。肌色だ。人の色だ。
「見てくれ、ディアン」
王が笑った。
「本物の腕だ。温かい」
王が右手を差し出した。ディアンに向かって。
ディアンは動けなかった。
「触ってみろ」
王の手がディアンの頬に触れた。
温かかった。柔らかかった。脈が打っていた。
銀の腕では感じられなかった、命の熱。
「……素晴らしい」
声が出た。自分の声とは思えなかった。
「ええ、素晴らしい出来です」
魔術師が王の後ろから現れた。疲れた顔をしていたが、満足そうだった。
「関節から関節へ、腱から腱へ。完全に再生しました」
——それは、俺の言葉だ。
ディアンの視界が歪んだ。
あの日、銀の腕を王につけた時、同じことを言った。関節と関節を繋ぎ、腱と腱を結ぶ。俺が七年かけてやったことを、この男は九日でやった。しかも、本物を。
ガシャン。
金属が床を打つ音が、廊下に響いた。
誰も拾わなかった。
王は自分の新しい腕に見惚れている。指を開き、握り、また開く。魔術師は王の反応を嬉しそうに見つめている。
銀の腕は床の上で、冷たく光っていた。
ディアンは膝をついた。
這うようにして、銀の腕を拾い上げた。
冷たかった。重かった。魔力炉が止まっている。ただの金属の塊だった。
「礼を言わねばな」
王が魔術師の手を取った。肉の手で、肉の手を。
「お前のおかげで、私は完全に戻れた。温かいな。お前の手は」
魔術師が頭を下げた。
「光栄です、陛下」
二人の間に流れる空気。ディアンには入れない空気。九日間で築かれた、何か。
王の目は魔術師だけを見ていた。
手の中の銀の腕が、震えていた。
違う。震えているのは、ディアンの手だ。
「——ああ、その銀の腕」
魔術師がディアンを見た。無邪気な笑みを浮かべている。
「素晴らしい素材ですね。溶かせば、陛下の新しい王冠が作れますよ」
足が動いていた。
魔術師に近づいていく。一歩、また一歩。
「ディアン?」
王の声が聞こえた。遠かった。
銀の腕を握りしめた。
重い。冷たい。硬い。
魔術師の目が見開かれる。無邪気な笑みが消える。
「——その手は」
ディアンの唇が動いた。
「俺のものだ」
——血の匂いが、樫の木の香りを塗りつぶした。
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