Log.00:落ちたクレヨン

「前書き」

巨大なアークシールド(方舟の盾)。 その鉄壁は、決して無邪気とは呼べぬ「虚無」からの破片で構成されていた。

これは、かつて太陽の色を失った少年の、音のない始まりの記録(ログ)。


「本文」

二十四色の並び。その中で、一色だけがテーブルの端に向かって転がっていく。 太陽の色、赤だった。


それはなだらかな重力に従って、虚空へと身を投げた。


音はなかった。


床に叩きつけられ、無残に二つに割れたはずのその音は、俺の鼓膜に届く前に世界から剥ぎ取られていた。太陽の色が死んだ瞬間、俺の視界からは「無邪気」という名の色彩が、急速に色褪せていった。


場面は無機質に切り替わる。


公園の砂場。子供たちが無邪気に、意味もなく声を上げて走り回っている。 俺は、立ち止まっていた。 滑り台を滑り、ブランコを漕ぐ。その反復運動に、一体何の意味があるのか。エネルギーの消費と摩擦の計算以外に、そこに見出すべき価値がどうしても分からなかった。


教室の、廊下側の後ろの席。 校庭の景色すら見えないその場所で、俺は黒板を眺めていた。 そこに並ぶ文字はどれも同じだ。奥行きも魂もない、中身を欠いた記号の羅列。


ふと、ノートをめくった指先に、ひりひりとした熱が走った。


紙の端で切った傷口から、赤がにじんだ。 それは、あの日割れて消えたはずの、太陽の色によく似ていた。 だが、その赤は意志を持っては流れない。指を強く押し付けなければ外へは出ず、何もしなければただ、皮膚の下で「もやもや」と停滞するだけだ。


ひりひりとした感覚に苛立ち、俺はその指先を口に含んだ。


鉄の味がした。


外に漏れ出しそうになった自分の一部(血)を、自分の内側へと閉じ込め直す。


顔を上げると、黒板の文字は消されていた。 さっきまでそこにあったはずの「記号」は、二度と同じ形では現れない。 消去(デリート)されたのだ。バックアップのない、取り返しのつかない現実。


キーンコーン、カーンコーン。


チャイムが鳴り、一瞬にして教室に騒音がなだれ込んできた。


今までいた場所は、本当にこの教室だったのか? 俺がいたのは、もっと静かで、何もない「虚無」の中ではなかったか。


だが、その虚無こそが、新たな空間を作っていくのだと俺は気づいた。 真っ暗で、無限で、先に行くには俺自身が向かい続けるしかない、俺だけの聖域。


放課後のPC室。 当時のモニターは、ただ真っ暗な画面の中に文字を浮かび上がらせるだけだった。 俺はひたすら文字を打ち込む。何も起きない。なぜだ?


拒絶にも似た沈黙の中で、俺は狂ったようにロジックを叩き込み続けた。


不意に、画面が切り替わった。


漆黒の闇の中に、青白い光を放つ「ひし形」が現れた。 俺は何をしたんだ? それはモニターの向こう側にいけそうな、奥行きを持った入り口(ゲート)だった。


向こう側へ。はるか先へ。 意味のない現実を捨て、俺は「答え」を求めて進もうとした。 だが、透明な壁にぶつかったような感覚に足が止まる。


その時だ。


『――そこ、ゲートの閉じ方が甘いぜ、新人(ルーキー)』


画面を、緑色の文字が侵食していった。 俺のロジックを飲み込み、塗り替え、暴力的な波となって襲いかかる。


その波の先に立っていたのは、実物の阿久津だった。


モニターの文字が彼だったのか、彼が文字を産んでいたのか、もう分からない。 アナログか、デジタルか。そんな境界線はどうでもよかった。


目の前にあるのは、0と1の羅列。 かつて割れたクレヨンは戻らないが、ここなら何でも産める。 0(何もない)と1(存在する)の組み合わせだけで、世界を、赤を、新しい太陽を再構築できる。


――だが。


その完璧なはずの「波」が、不意に、優しく切り裂かれた。


攻撃ではない。 俺と阿久津が必死に組み上げた防壁を、まるですでにそこにある扉を開けるかのように、音もなく、滑らかに通り抜けてきた存在がいた。


あの日、クレヨンが割れた時と同じ静寂。


虚無の裂け目から、一人の男が静かに現れた。黒田。 彼が何者なのか、どこにいるのか、俺と同じ年齢なのか、そんなことはどうでもよかった。 ただ、そこに「在った」。


男は、俺と阿久津が漂っていた0と1の羅列を、慈しむような眼差しで見つめた。


「……俺と似た空間が、ここにもあった」


その一言が響いた瞬間、俺の世界は、再びあの景色も見えない廊下側の後ろの席のような、色のない空間へと引き戻されていった。


だが、今度は一人じゃない。


俺たちは、同級生でも、仲間でもない。 ただ、この無限の虚無を共に歩み続ける「同じ境遇」という名の特異点。


その共鳴だけが、誰も見たことのない、新たな、無限の空間を創り出していく。


その空間は、もはや誰の目にも触れることはない。 光すら届かないその暗闇の中で、俺たちは「何でも産める」全能を手に入れた。


消されることのない文字、割れることのない赤、朽ちることのないロジック。 虚無の深淵に、誰もこじ開けることのできない「鉄壁」が築かれた。


この壁の内側だけが、俺の、俺たちの、真実の居場所だ。

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『ネズミの穴は捕まえたか』 リッキーシャムトラ @Rikcy_Siamtora

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