『ネズミの穴は捕まえたか』
リッキーシャムトラ
ゴーストコードの審判
第一章:静かなる侵食
午前四時十二分。永井克紀(ながい かつき)の部屋は、凍てついた静寂に支配されていた。 都心の高層マンション、地上百五十メートル。家具の配置は数ミリの狂いもなく、壁には一枚の絵画も、仕事のメモすら存在しない。
克紀は薄暗いキッチンでコーヒーミルを回していた。摩擦熱が豆の香りを損なわないよう、心拍数と同じリズムでハンドルを回す。彼にとって唯一の解放される儀式だった。
その時、スマートフォンが一度だけ震えた。 『Code Red:Ark-Shield HQ / 27F-Core Area』
アーク・シールド本社、二十七階、中枢エリア。克紀が守り抜いてきた「絶対的な安全」が崩壊したことを意味していた。 克紀は淹れたてのコーヒーに一口も触れず、クローゼットへ向かった。一分の隙もない漆黒のコートを羽織り、ネクタイを整える。扉が閉まる音が、戦いの始まりを告げる合図のように響いた。
同時刻、本社ビル。 深夜の見回りを終えた警備員が、警備室のドアを閉めた。その直後、コンソールに一行のログが追加される。 [04:12:03:Cleaning-Robot Unit-01~12 - Routine Cleaning Started]
「……また同期ミスか」 監視員の中村は一瞥して視線を戻した。彼らにとっての「目」は監視カメラではなく、ログという名の数字の羅列だ。ログが「正常な掃除」を報告している以上、疑う余地はない。
だがその数秒後、システムが悲鳴を上げた。 ──緊急警告。認証突破。データ抽出開始:Server-Block-G。
「嘘だろ……っ!」 一六ギガという途方もないデータが、音もなく吸い出されていく。パニックの最中も、コンソールの一角では「掃除ロボットは正常に清掃中」というログが、皮肉なほど静かに流れ続けていた。
午前五時三十五分。克紀が本社ビルに到着した。 二十七階、監視室。自動ドアが開くと、中村の怒号が鼓膜を叩いた。
「中村。感情を切り離せ。報告しろ」 克紀の鋭利な声に、中村が振り返る。 「侵入時間は二十三秒。一六ギガが吸い出されました。管理者権限で実行され、足跡も一切残っていない。まるで最初から『内側』にいた誰かが鍵を開けたかのように……」
克紀はモニターをスクロールし、更新され続ける一行を見つけた。 [04:58:12:Cleaning-Robot Unit-01~12 - In Progress / Area 27-C]
「中村。俺が到着した時、掃除ロボなんて一台も動いてなかったぞ」 三人が振り返る。ドックにある一二台のロボットは、全て充電中を示す緑 of ランプを静かに点滅させていた。 「……嘘だろ。ログでは今、俺たちの目の前を横切っていることになってるぞ」
克紀がコンソールを奪い、指先でキーボードを弾く。 「ロボットの物理ログだ。充電を開始した瞬間と、システムが『清掃終了』を記録した時間に、わずか三秒の空白がある。犯人はこの三秒を使って『本物の鍵』を書き換えた。一六ギガのノイズはお前たちの目を逸らすための目眩ましだ。犯人は一行のログを書き換え続けるだけで、お前たちの『現実』を上書きしたんだ」
朝日が監視室を照らす中、三人がデータを解凍した。そこに並んでいたのは最先端の軍事コードではなく、十五年前の古臭い「初期コード」だった。 「……犯人は、お前たちの技術も、十五年前のゴミほどの価値もないと笑っているんだ」
午前七時三十分。セキュリティ統括部長の藤井が乗り込んできた。 「中村、三浦、佐伯! 席を立て。こいつらを隔離しろ!」 藤井が部下を「不祥事」の生贄にしようとした時、克紀が静かに告げた。
「藤井部長。彼らの過重労働を理由に、明日の朝には労基の立ち入りが入りますよ。調査は明日、私の監視下で行えばいい。……違いますか?」 保身を優先した藤井は去っていった。
入れ替わりに入ってきたのは、運用部のトップ、黒田だった。 「相変わらずだな、克紀」 黒田がモニターを指さした。そこには現在の派閥争いの根幹に関わる、ある「消されたはずの署名」が刻まれていた。
***
第二章:隔離された聖域
午前八時十五分、路地裏の喫茶店。 中村たち三人は、克紀の機転で没収を免れたノートパソコンを囲んでいた。 「……ログは事実を映す鏡だ。そうだよな?」 中村の問いに、佐伯が実演を始めた。物理接続を切断した状態で「録音した正常なログ」を再生する。画面の中では、繋がっていないはずのスマホが完璧な通信を演じ続けていた。
「……ログは『結果』じゃない。誰かが意図して流せば、それは『脚本』になるんだ」
中村の手の中で、ゆで卵の殻が砕けた。 「永井の野郎、これに気づいてたのか……。よし、明日九時の役員会だ。そこで俺たちのプライドを取り戻してやる」
同じ時刻。監視室の黒田は、克紀を糾弾するフリをしながら、システムの裏側をスキャンしていた。 (お前は『表』で組織の腐敗を叩け。俺が『裏』で穴を塞いでやる。……あの頃の役割分担は、まだ生きてるんだろ?) 黒田は部下に命じ、「プロトコル・セブン」を発動。外部通信を遮断し、克紀たちが動くための「空白の十時間」を作り出した。
***
第三章:ゴースト・イン・ザ・コード
翌朝九時、第一役員会議室。 藤井は、克紀の更迭案を突きつけていた。 「久保田取締役。永井を即刻解雇すべきです!」
その時、重厚な扉が開いた。 「勝手な判決を下すのは、まだ早い。藤井部長」 中村が割って入った。佐伯がノートパソコンを広げ、ケーブルの繋がっていないスマホがデータを送信している「嘘のログ」を再現した。 「俺たちは、泥棒が投げた録音機に向かって吠えていた番犬だったんだ!」
会議室が凍りつく。久保田取締役は静かに黒田を見た。 「運用部として、認めざるを得ません。我々が追うべきなのは、ハッカーではなく、『システムそのものに嘘を吐かせた人物』のようです」
久保田は藤井を切り捨てた。 「更迭案は白紙だ。……永井、お前はどう動く」
克紀が立ち上がる。 「中村、三浦、佐伯。……ついてこい」 屋上で克紀は三人に告げた。 「デジタルが嘘を吐くなら、『嘘を吐けない物理的証拠』を洗う。……阿久津。死んだはずの最後の一人が、俺たちの『子供』を迎えに来たんだ」
その頃、黒田はわざとデータをデスクに置いた。克紀の教え子である佐伯に、それを盗ませるために。 (来い、佐伯。……お前がこれを盗むまでが、俺と克紀の契約だ)
合流した佐伯が持ち帰った座標を頼りに、三人は代々木の古い倉庫へ向かった。 「阿久津……。今の混乱、お前の仕業か」 「仕業? 心外だな。俺はただ、俺たちの『子供』を迎えに来ただけだ」 阿久津は、黒田が託した「最終キー」を指さした。 「選べよ、克紀。お前が引導を渡すんだ。この、汚らわしくも愛おしい『方舟』にな」
***
第四章:最後の鼓動
午前零時十五分。 克紀たちは、阿久津の復讐の種火を「自浄システム」へと書き換えた。 「……終わったな。阿久津、お前も来い。俺たちの作った『子供』が、親を裁くのを見届けるんだ」
午前七時十分、二十七階監視室。 解除された扉を叩き開け、藤井が乗り込んできた。 「黒田! 証拠隠滅の現行犯で貴様を……っ!」
だが、全モニターが明滅していた。 「……スマートデバイスのメッシュネットワークだ。あの子を止める檻にはならない」 黒田が立ち上がり、その背後から克紀、中村、そして阿久津が現れた。
久保田取締役は、データの滝を凝視していた。そこにはどれだけ目を凝らしても、久保田の名が流れることはなかった。記録されているのは、藤井の権限で行われた不正アクセスのログだけだった。
久保田は不気味な微笑を浮かべた。 「……藤井。これが証拠だ。観念せい」
藤井が連行される中、久保田は「不純物を排出した」と冷徹に笑った。黒田は煮えくり返る思いでその嘘を呑んだ。 「……ええ。間違いありません。藤井部長による、組織的な背任行為です」
午前八時三十分。エントランス。 パトカーを見送った克紀は、久保田に事務的に告げた。 「藤井が穴を開けたのではない。システムに元からあった穴を、利用しただけです。本日付で、阿久津をCTOに据えていただく。それが盾の崩壊を止める唯一の手順です」
久保田は道端の石ころを見るような余裕で笑った。 「いいだろう、阿久津。本日付でCTOに任命しよう。完璧な『盾』にしてもらおうじゃないか」
久保田は去っていった。その背中は、反逆すら糧にする怪物のままだった。 克紀、阿久津、黒田の三人が朝日を浴びる本社ビルを見上げた。
「……認めさせたな」 「ああ。だが、あいつの名はログにすら流れなかった。……この城には、俺たちの知らないもっと深い『穴』がある。……行くぞ」
三人の足音がエントランスに響く。 克紀が足を止め、十時間を戦い抜いた中村、三浦、佐伯の三人に歩み寄った。 「お前たちが繋いだ三秒の空白がなければ、この穴を捕まえることはできなかった。見事な仕事だった。……頼むぞ」
三人の顔に、ようやく誇りが浮かんだ。 克紀、阿久津、黒田の背中が中枢へと吸い込まれていく。 背後では、掃除ロボットたちが昨日とは違う「リズム」でフロアを磨き始めていた。それは阿久津が十五年間送り続けてきた、あの心拍(ハートビート)のリズム。
かつて彼らが作った「方舟」が、再び三人の手に戻り、巨大な闇へと進路を変えた合図だった。
(完)
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