第2話
「こっ、これはっ……」
適当に開いたページでいきなり浣腸プレイが出てきて思わず唸った私の周りに男子が集まってきた。その外側に、女子。
「あのこれさ。本当にこんなの読めってお父さんに言われたの?」
「間違って混ざったんだと思う。勧められたからには読まなきゃじゃん。変なのがあるなと思って読んだらあんまりとんでもなくてさ、でもこの本は時代の先端を行ってると思ったね。読む価値はあるよ。人類の性癖に罪はないし、快楽を得る方法なんてどこまでも自由でいいんだってわかった、それに愛と性欲は別物だってこともね。それは別に悪いことじゃない」
「おい、ちょっと見せてくれよ」と男子たち。
「男子はだーめ。刺激が強いから、今から変態プレイにはまったら将来が悲惨すぎる」と栄子は男子たちの手を振り払った。
「どんな内容なんだよ、具体的に」
「具体的にって言うと、一リットルの浣腸とかガラスのトイレとかゴムラバー ……知らないか」
「あなたたち、チャイム聞こえなかったの? 席に着きなさい!」
イシズが額にしわを寄せながら入ってきた。栄子はあわてて私に本を押し付けて小さな声で言った。
「読んで、感想聞かせてね」
「うーん。まあ、読むよ」私は実は知らない背徳の世界の入り口を見せられただけでドキドキしていたのだ。
「ねえ、その次私に回して」瑞代が後ろからささやく。「じゃ次、私も! いい?」
女子達がひそひそと名乗りを上げた。栄子はあっさりと
「いいよ、ちゃんと返してくれるなら」と答えていた。
何を考えているのか、何も考えていないのか。私はバスでの出来事よりも、彼女の先を考えない行動にあっけにとられていた。
こうして、尚子の父親のエログロ変態本はクラスの女子の間を一周することになってしまった。
学校で回すときは、別の本のカバーをつけて、先生に見つからないように細心の注意が必要だった。そしてまだ上げそめし前髪の、いたいけな13、4歳の昭和の少女たちは、大人の世界を飛び越して、終始男女が変態プレイで汗まみれになるトンデモ本で未知のショックを受け、うらやむ男子をよそに昼休みの話題は青い〇〇でもちきりになってしまった。
私はと言えば、夜布団をかぶりながら懐中電灯で読んだその内容のおどろおどろしさと初めて知るSMプレイの具体的な描写に、そして昼間は普通の顔をして暮らしている大人たちが異様な性行為で快楽に溺れるその姿にドキドキしながら、そうか、皆外に出さないだけで大人というのはほとんどが変態なのだ、とかなりな勘違いに走ってしまった。なんて醜く、おぞましい。これが大人の快楽だなんて。
そもそも小説の主人公にしてからが、日ごろ厳格な父親の日記を娘が読んで父の裏の趣味を知ってしまうという設定だったのだ。もちろんこちとら女なので、未知の部分を刺激されて自分もこんな目にあいたいとか股間がむずむずする、ということはなかった。
オトコなんてもう信じられない、自分の父親だってもしかしたら、と悶々としながらも、私は栄子の「快楽を得る方法なんてどこまでも自由でいいんだ」というおおらかな感性に、こりゃ自分は太刀打ちできない、と思い知った。彼女の望む感想なんて、どんな言葉を使って背伸びして言ってみても、鼻で笑われるだけだろう。何しろ彼女は天才なのだから。
そして夏休み直前に、その本は栄子の手元に戻った。尚子はというと、天才的な速読で父親に渡された文学全集を夏休み前に読み切ってしまい、「もう全部読んだ」と父親に本を全部返したという。
「あの、例の本も混ぜて?」と恐る恐る聞くと
「当然」と彼女は答えた。そして続けて
「夏休みの宿題に読書感想文ってあるよね」と言ってニッと笑った。
「まさか、あの、それだけはやらないよね?」
「課題図書にはもちろん入ってないけど、父が勧めた本ですって言ってあれの感想書くのも悪くないじゃん」
「悪い!」思わず叫ぶように答えていた。家庭崩壊につながりかねない暴挙だ。
実際にそれをやったとして、職員室に呼び出されるのは彼女か、それとも父親か?
すると栄子は急に真面目な顔になって、言った。
「あのね、この世はフィクションなのよ。当然私もフィクション」
「はあ?」
それって今まで聞いたことの半分以上が嘘だってこと? いやいや、天才の言うことは凡人にはわからない。
「この世がフィクションなら、その作者にはこれから先起こることは全部わかってるわけよ。そして私たちは、その運命には決して逆らえない」
「……そりゃまあ、確かに」
「だからこの先私に何が起ころうと、ああ何かの思い通りになっただけだと思って、納得するだけでいいから」
何が言いたいのかわからないままに、私は「それってつまり、この世はなるようにしかならないってこと?」と答えた。
「まあ、それでもいいかも、ね」
結局私はたぶん彼女の意図を受け取り損ねた、そんな中途半端な気分が残った。
夏休みに入り、栄子との音信は途絶えた。電話番号もきいていないし、今のようにスマホやラインがあるわけでなし、その場だけの人付き合いしかしない栄子は、その後のことなど私に伝えてくるタイプの人間でもなかったのだ。
そのころ、私の通う中学では夏休み中に「登校日」というのがあった。何の授業をするでもなくただ集まり、現状や夏休みをどう過ごしているかを報告しあうだけの日だった。
その場で一番会いたかったのはもちろん栄子だったが、彼女は姿を見せなかった。そして担任のイシズが教室に現れると、その異様に暗い雰囲気に皆は異変を感じて静まった。イシズは沈んだ様子で言った。
「皆さんに残念なお知らせを最初にしなくてはいけません。菅原栄子さんが、階段から落ちて重体、今も意識不明とのことです。転校してきて間もないのに、残念なことです。みんなで菅原さんの回復を祈りましょう」
ええっ、という驚きの声とざわめきがクラス中に広がった。そして多分、あの本を読んだ女子の多くが、彼女の災難とあの本を頭の中で結び付けていたと思う。
そして、彼女が「九歳の時階段から落ちて頭を打ってから性格が変わった」という話は、私だけが知っていた。そう、私だけが。
うちの階段急で足滑らせて、とあの時彼女は言っていた。
でも今回はどうして落ちたのだろう。やはり足を滑らせて?
彼女の厳格な父親は、自分の「趣味本」を娘に読ませてしまったことに気づいただろうか。全部返してもらったのだから、そこは気づいたに決まっている。
だけど、気づいて後悔しても口には出せまい。
で……
……彼女は、今度はどうして、階段から落ちたのだろう。
夏休み明けの前日、栄子はこの世を去った。
葬儀は家族葬にするということで、担任さえも参列しなかったという。
初休み前に笑顔で話した彼女を見たきりなので、私には彼女がこの世にもういないということが実感としてどうしても伝わってこないままだった。
一時期親しい中になったのだから「悲しみ」という感情を実感を伴って手にしたかったが、どうしてもそれは確かな形を成さなかった。
私はときどき罰当たりな夢想をする。
一番知られたくない自分の暗部を知った娘の背を、暗闇で押す男の手。
階段を転げ落ちる栄子。
泣きながら救急車を呼ぶ母親。
やがて意識が戻り、家族の顔を順々に見て、キョトンとする栄子。
私がわかる? 私がわかる?
と抱きしめながら言う母親。
……ママ。パパ。
私どうしてここにいるの? と、幼い口調で栄子は言う。
なにか、高いところから落ちた気がするの。あたまが痛い。
どこから覚えている? と、恐る恐る聞く父親。
どこかの階段から落ちたかなあ。よくわからない。
学校にはいつ行ける? さらちゃんとか、みなみちゃんとか、会いたいな。
栄子は小学校の同級生の名前をあげる。口を覆う母親。
えいこ、今、何歳かわかる? と震える声で尋ねる。
ううんとね、九歳かな、あれ、八歳だっけ。ごめんね、よくわからない。
いろいろ、思い出せない。
黙って娘を抱きしめる父親。
いいんだいいんだ。無理しなくていいんだ。お前のその年齢からまた生きなおそう。
私たちの可愛い娘。お前は九歳だよ。でもしばらく学校には行かなくていいからね。
じっくり治していこう。
この世がフィクションなら、私という作者も、どんな物語を作っても許されるはずだ。
だって栄子が、そう言ったのだから。
「だからこの先私に何が起ころうと、ああ何かの思い通りになっただけだと思って、納得するだけでいいから」
もしかしたら、彼女は自分が階段から再び落ちていく未来を、どこかですでに受け止めていたのかもしれない。
なぜその運命を、うっすらと私に伝えようとしたのだろうか。
納得はしていない。
でも多分、私は謎のような美少女と語り合ったあの夏を、一生忘れられないだろう。
<了>
階段から落ちて人格が変わった友人の生と死 水森 凪 @nekotoyoru
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