第11話 還るべき場所

 深い夜の静けさがゆっくりと薄れ始めた頃、空の奥底でかすかなざわめきが生まれた。

 雲は、その響きが自分自身の内側から湧き上がっていることに気づく。それは崩壊への恐れでもなければ、終わりの予感でもなかった。ただ、形を脱ぎ捨てるときが来たという、世界の深淵からの静かな呼び声だった。


 雲は胸の奥に、確かな重みを感じる。

 それは長い旅の疲れなどではない。今まで抱いてきた鳥たちの羽音、子どもの清らかな祈り、そしてあの燃えるような夕暮れの光……それらが雲の中で静かに溶け合い、ひとつの結晶へと凝縮されていくような、柔らかな圧力だった。想いたちは混ざり合い、熱を持ち、やがて透明な「雫」へとその姿を変え始める。


 雲はゆっくりと、自らの形を捨てていく。

 これまで大切に守ってきた輪郭がほどけ、蓄えてきた光が夜の空気へとにじみ出す。自分が空という自由な場所から離れていく感覚。けれど、そこに悲しみはなかった。それは長い、長い旅の果てにようやく辿り着いた、深い安らぎのようなものだった。


 雫が生まれる。

 ひとつ、またひとつ。

 雲の身体からこぼれ落ちたそれは、重力に身を委ね、空気を震わせながら大地へと向かっていく。「落ちる」という行為は、何かを失うことではない。それは、あるべき場所へと「還る」ことなのだ。雲は、消えゆく意識の中でその真理を静かに理解していた。


 地上では、木々が期待に葉を揺らし、渇いた土が深く息を吸い込んで、空からの恵みを迎える準備を整えている。

 雫は土の胸に抱かれ、闇の中へと染み込んでいく。そこでまた命を潤し、根を伝い、やがて再び空を目指して芽吹くための、新しい旅の種となるのだ。


 雲は、自分が限りなく薄れていくのを感じながら、不思議な満足感に包まれていた。

 形を捨てることは、決して終わりではない。それは、次なる始まりのために捧げられる、もっとも静かな儀式だった。


 雲は最後のひとしずくを落とし、ついに空の深淵へと完全に溶けていった。

 その消えゆく淡い気配は、目には見えずとも、どこかで確かに新しい命の鼓動へと繋がっている。朝の光が再び空を叩くとき、そこにはもう、かつての雲の姿はない。けれど、世界は確かに、彼が運んできた温もりを抱いて目覚めるのだ。


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