第8話 届かぬ声の温度
孤独のしんとした静けさを胸に抱き、ただ空を流れていたときのこと。はるか遠い地上から、一本の細い糸のような視線が伸びてくるのを雲は感じた。それは形を奪う風でもなく、輪郭を暴く光でもない。ただ真っすぐに、一心に空を見上げる、ひとりの子どものまなざしだった。
子どもは雲を見つめ、言葉にならない願いを、呼吸のようにそっと空へ放つ。その声は、物理的な音としては雲まで届かない。けれど、そのひたむきな思いは風に乗り、光に溶け、目に見えない粒子となってゆっくりと雲のもとへ運ばれてくる。
雲はその清らかな気配に触れた瞬間、胸の奥で小さく、けれど激しく震えた。それは鳥たちが残した賑やかな記憶とも、風が語る峻厳な言葉とも違う。もっと柔らかく、もっとあたたかく、そして壊れてしまいそうなほど脆いものだった。
願いが、雲の柔らかな層に触れる。雲はその感触を、決してこぼさぬよう大切に抱きしめた。不思議なことに、その願いは「荷物」としての重さを持たなかった。むしろ、雲をいっそう軽やかに、空の高みへと押し上げるような、透明な光の粒だった。
地上では、子どもが雲の形がゆらりと変わるのを見て、小さく笑みを浮かべている。その笑顔が雲の目に届くはずなどないのに、なぜか雲の内側では、ひとつの灯火のように温かな光が揺れた。
雲は思う。自分はただ、あてもなく空を漂うだけの虚ろな存在ではない。誰かの心に寄り添い、誰かの願いを預かり、その祈りを胸に抱いたまま、まだ見ぬ空を切り拓いていくことができるのだ。
子どもの放った願い。それは雲にとって、初めて出会う「祈り」という名の真実であり、世界との確かな「つながりの温度」だった。その温度は、雲の孤独な旅路を優しく照らし出す。そして、地平線から忍び寄る夕暮れの色を、見たこともないほど深く、慈しみに満ちた色へと、静かに変え始めていた。
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