第6話 重なり合う軌跡

 海のまぶしさを胸いっぱいに吸い込み、心地よい浮遊感の中で漂っているときだった。空のどこからか、鋭く細い影が近づいてくる。それは一羽の鳥だった。鳥が風を切る「シュッ」というかすかな音が、雲の柔らかな表面に触れる。その触覚は、静かな水面に石を投じたときのように、雲の内側へとなだらかな波紋を広げていった。


 鳥は迷いのない翼で空を渡り、雲の身体を真っ直ぐに通り抜ける。その刹那、力強い羽ばたきの音が雲の胸に深く刻まれ、一本の銀色の線となって残った。それは単なる通過ではなかった。まるで、鳥が抱えてきた大切な物語の一頁が、雲の中にそっと置かれていったかのようだった。


 雲は気づく。鳥たちはこの広大な空を旅しながら、膨大な記憶をその翼に宿しているのだということに。

 かつていた巣の温もり、季節を運ぶ風の匂い、遠い異国の土地で浴びた光、そして共に飛ぶ仲間の呼び声。そのすべてが羽音に混じり、雲の内部へと静かに流れ込んでくる。


 鳥が去ったあとも、雲はしばらくその場に佇んでいた。胸の奥に残された「記憶のかけら」が、ゆっくりと沈殿していくのを感じる。それが自分のものではない借り物の記憶だと知りながら、それでも確かに自分の内側を温めている不思議な感覚に、雲は小さな驚きを覚えていた。


 やがて、また別の一羽が通り、さらに群れが横切っていく。雲の中には細い記憶の線がいくつも重なり、交差し、まるで見えない地図のように広がっていった。その繊細な地図は、雲がまだ訪れたことのない世界の形を、予感という絵の具でそっと描き始めていた。


 雲は思う。自分は、決して独りでこの旅をしているのではないのだと。

 誰かの記憶を預かり、誰かが描いた軌跡を受け取りながら、自分はこの空を進んでいる。


 鳥たちが残した温もり。それは雲にとって、初めて出会う「他者」の気配であり、世界と自分を繋ぐ初めての絆だった。そのささやかな温度は、雲の旅を、より深く、より色彩豊かなものへと静かに変えていった。



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