第4話 山肌の刻印

 透明な風の言葉に身を任せていた雲は、やがて視界の下方に、大地が大きく盛り上がっていることに気づく。遠くに横たわる山々は、深い眠りについた巨人のようだった。その圧倒的な存在感は、自分が身を置く空の希薄さとはまるで違う、抗いがたい「重み」を湛えている。


 山に近づくにつれ、雲の胸の奥には小さなざわめきが生まれた。それは決して拒絶される恐れではなく、未知なるものに触れる瞬間の、張り詰めた緊張に近い。山は動かず、ただ悠然とそこに在り続け、これからやってくる雲の影を、柔らかな山肌で受け止める準備をしているように見えた。


 やがて雲は、山の肩にそっと触れる。

 その瞬間、雲は初めて、自分が「旅」という途方もない流れの中にいることを悟った。山肌に落ちた自分の影が、岩肌の凹凸をなぞり、木々の梢を揺らしていく。地上に映し出されたその暗い形こそが、自分という存在の写し鏡となり、雲の心に消えることのない明確な「輪郭」を刻んでいった。


 「越える」という行為は、想像していたよりもずっと静かで、そして深かった。

 峰を通り過ぎる際、雲は自らの内側に、新しい「重さ」が宿るのを感じる。それは引きずるような悲しみでも、背負わされた責任でもない。ただ、確かな質量を持つ世界と触れ合ったという、かけがえのない証としての淡い重みだった。


 ひとつの山を越えるたび、雲の存在は少しずつ密度を増していく。

 風の流麗な言葉だけでは知り得なかった、大地の深い沈黙。その静かな響きが、雲の中に新しい層を作っていく。それは、これから続いていく果てしない旅路を照らす、密やかな道しるべとなって雲を満たしていった。


 雲は決して振り返らない。

 けれど、山肌に残してきたあの影の、ひんやりとした確かな感触だけは、彼の胸の奥で、いつまでも静かな光を放ち続けていた。



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