第3話 透明な辞書

 やがて、停滞していた空気に変化が訪れる。風が動き始めたのだ。


 まだ朝の光が淡く漂う空の中で、風は雲のまわりをそっと巡り始めた。触れては離れ、離れてはまた寄り添うその動きは、まるで形を持たない流麗な言語のようだった。雲はその見えない指先を全身で受け止める。


 あるときは背中を押され、あるときは優しく撫でられ、またあるときは激しい渦に巻き込まれる。そのひとつひとつの感触が、雲にとっては重大な意味を持っていた。風が触れるたび、雲の内側には新しい響きが刻まれていく。風は人間の話すような言葉は持たないが、その沈黙の旋律には、世界の深い呼吸が宿っていた。


 時に吹く強い風は、鋭い「問いかけ」のようだった。

 ――お前はどこへ行くのか。

 ――お前は何をその胸に抱えて進むのか。

 雲はまだ、その問いに答える術を知らない。ただ、翻弄されながらも必死に自分の輪郭を繋ぎ止め、宙に踏みとどまるのが精一杯だった。


 一方で、なぎに近い優しい風は、静かな「祈り」のようだった。

 ――あなたはそのままでいい。

 ――あなたはただ、空の一部として世界に溶けていけばいいのだから。

 雲はその祈りを肺の奥まで吸い込み、強張っていた形をふわりと解いた。すると、不思議なことに身体は少しだけ軽くなった。


 風は、雲に世界のことわりを教えていた。

 世界は絶えず流れ、変わり続けていること。触れ合い、離れ、形を失ったとしても、それでもなお、どこかで繋がっているのだということ。雲はそれらすべてを知識としてではなく、肌に刻まれる「感覚」として胸の奥にしまい込む。それは、この幼い雲にとって初めて手にする、真っさらな『世界の辞書』だった。


 風が吹き抜けるたび、雲は少しずつ形を変え、少しずつ成長していく。旅の準備は、こうして静かに整えられていった。

 まだ、この風が自分をどこへ運んでいくのかは知らない。けれど、この透明な言葉を道連れにするのなら、どんな遠い場所へでも行けるような気がしていた。




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