第二話 人喰らう闇
男の視界の先で、息子の形をした影が歩き出す。
その子供の影の歩む先には…あの洞窟があった。
影は洞窟の中に消えていく。
男も子供を追って洞窟に足を踏み入れた。
『絶対に入ってはいけない』伝承があった事など、男の脳裏から消え去っていた。
男が洞窟に入った瞬間。
強い香りが男の鼻腔を刺す。
それは、甘い、とても甘い、甘すぎる程の花の香りだった。
香りに気押され、一瞬、男は顔を顰める。
岩肌だらけの洞窟から香る花の臭い。
男はその不釣り合いさに不可解さを感じる。
しかし、その程度では亡き子供の姿を追う男の歩みは止まらない。
洞窟の岩肌に触れながら、苔むした地面を踏み、奥に向かって進む。
洞窟の入り口から差し込む太陽の光を、洞窟の奥から迫る闇が切り裂く、その境目。
そこからは闇の領域。禁忌な洞窟のテリトリー。
男がその境に辿り着いた瞬間。
「っ痛!」
岩肌に触れていた掌に激痛を感じ、男は苦痛の声を挙げる。
痛み奔る掌に目を落として瞬間。男は目を見開く。
「なんだこれは?」
男の掌は血塗れになっていた。
薄暗い洞窟の中。
眼を凝らした男が、自身の掌を傷付けたものの正体に気付く。
先程まで男が触れていた、洞窟の冷たい岩肌。
その岩肌が、いつの間にか、岩でないモノに変わっていた!
洞窟の壁面が針のように鋭くささくれ立ち、歯朶(しだ)を拡げ、百足(むかで)のように畝(うね)る刃となっていたのだ。
洞窟内に入った時は、間違いなく普通の岩壁だった。
しかし、男が気付いた時には既に、洞窟内の壁は、見渡す限り棘の刃と化していたのだ。
その変貌ぶりと。そして掌の痛みにたじろぎ、男は尻餅を突く。
しかし、倒れ込み両の手を地面に付いた瞬間…更なる衝撃が男を襲った!
変貌したのは岩壁だけではなかった。
洞窟の地面事態もその姿を変え…長細いべちゃべちゃとした水気を含む触手が地面一面に群がり生えていたのだ!
その触手が男の四肢に絡みつき自由を奪う。
抗おうと身を捩るが、刺されたような痛みが男を襲う。
同時に、まるで麻酔薬でも注射されたように四肢から力が抜けていく。
一体何が起きているんだ!
男の混乱は頂点に達していた。
悪寒。吐き気。耳鳴り。呼吸困難。麻痺。混濁。朦朧。不快を表現する全ての感覚を用いても言葉にできない。
痙攣する喉が声帯をも麻痺させ、叫び声も出せない。
…その時。
混乱の極みの中にいる男の視界の先に、一つの影が見えた。
その影は…子供の姿をしている。
男は救いを求めるように影に手を伸ばす。
それを察したように、影が男に近付く。
もう触れられるほどの距離に子供の影がいる。
全身を覆う苦痛の中。
男が僅かに安堵の表情を見せた…その時。
影の顔面が真横に裂ける。
その裂け目が作った空洞が三日月の形になる。
その裂け目は…笑いだった。
…影が、笑っているのだ!
それは微笑みではない。
邪悪な嘲笑だった。
その変化に戸惑う男の視界の先で。
子供の影が形を変える。
大きく、大きく膨張し、人型のシルエットのまま、巨大に変貌する。
その四肢は丸太のよう。その体躯はドラム缶のよう。その爪は抜き身の刃のよう。その牙は拷問器具のよう。
まさに暴力を体現したようなその姿は、男が幼い頃に遭遇した野生の獣によく似ていた。
膨れ上がった巨大な肉食哺乳類の姿を模した影が、身動き取れない男を覆う。
黒く染まる視野の端、男が見た最後の光景は、壁に茂った針の歯朶の中に生えた、冷たいニンゲンの顔面だった。
◆
穴の奥の奥の、更にその奥に、男の肉体はあった。
身体の自由は既に奪われている。僅かに動く眼(まなこ)に映る自身の体躯は巻き付く無数の棘(いばら)に差し貫かれ喰われる事を待つだけの木偶人形と化している。
その思考も既に愚図と化し、恐怖と懇願の叫びを挙げる筈の本能も奪われた。
最後に残された男の精神が視たモノは、何よりも大切だった幼子にバリボリと喰い尽くされる自分の姿。
しかし、今際の際、同時にそれが自分にとっての救済でもあった事も自覚できていた。
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