第5話 偽恋人のはずなのに、他の誰かは嫌だった
朝の校門前で結月は、いつも通り待っていた。
距離も、立ち方も、変わらない。
「おはよう、悠斗くん」
その声に、俺は少しだけ安心する。
昨日までの、あの微妙な空気はもうない。
少なくとも、表面上は。
並んで歩きながら、他愛ない話をする。
小テストのこと、昼休みの購買、週末の天気。
どれも、特別じゃない会話。
――ああ、戻ったんだ。
偽恋人としての距離感。
甘すぎず、離れすぎず。
ちょうどいい“日常”。
そう思ったのに、教室に入って席に着いた瞬間、
結月が何気なくこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
ほんの一瞬。
気のせいと言えば、それまでの違和感。
平穏な日常に戻ったはずなのに、
俺はなぜか、少しだけ気を張ったままだった。
この関係が、また何かに揺さぶられる――
そんな予感だけが、胸の奥に静かに残っていた。
昼休みの終わり際、俺は席に戻ろうとして廊下で足を止められた。
「佐倉、今日の放課後さ」
声をかけてきたのは、クラスの中心にいる男子だった。
その横には、見知った女子の姿もある。
「来週の小テストやばくね? ちょっと集まって勉強しようって話になってさ」
「男女混ざってだけど、別に遊びじゃないから」
勉強会。
健全すぎるほど健全な用事だ。
「山科も来るって」
その名前を聞いた瞬間、なぜか一拍、呼吸が遅れた。
「悪いけど、今日は——」
断るつもりだった。
実際、口もそう動きかけた。
「佐倉くん、来てくれたら助かるんだけど」
女子の方が、柔らかく続ける。
本当に、ただのクラスメイトとしての誘いだ。
そのときだった。
「……何の話?」
背後から聞こえた声に、俺は振り返る。
天宮結月が、そこに立っていた。
いつから聞いていたのか分からない距離。
「放課後、勉強会だって」
誰かが答えるより早く、俺が言った。
「小テスト対策らしい」
結月は一度だけ、俺を見る。
表情は整っている。
けれど、視線の奥が、わずかに揺れた気がした。
「へえ」
それだけ言って、結月は微笑む。
「大変だね」
声音は軽い。
けれど、その軽さが、妙に引っかかる。
「行くの?」
何気ない問い。
責める色はない。
「……まだ決めてない」
正直に答えると、結月は小さく頷いた。
「そっか」
それ以上、何も言わない。
ただ、その場を離れていく。
誘ってきたクラスメイトたちは、気まずそうに視線を交わした。
「……で、どうする?」
聞かれて、俺は少しだけ黙った。
行く理由もある。
断る理由もある。
なのに、結月がその話を聞いていた、という事実だけが、
頭の中で静かに重みを増していく。
断るつもりだったはずなのに。
その決断が、急に簡単じゃなくなっていた。
放課後、昇降口へ向かう人波の中で、結月は俺の隣を歩いていた。
距離はいつも通り。歩幅も同じ。
それなのに、空気だけが少しだけ違う。
「さっきの話だけど」
俺が切り出すと、結月は前を向いたまま頷いた。
「聞こえてた」
それ以上、何も言わない。
鞄を持つ手が、ほんの少し強く握られている。
「……勉強会なんでしょ?」
「うん。小テスト前だし」
「別に、いいと思うよ」
あっさりした声だった。
引き止める気配も、探るような響きもない。
「行っても」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が微かに軋んだ。
俺はそれを、気のせいだと片付けようとする。
「そうか」
短く返すと、結月は少しだけ口角を上げた。
「ちゃんと勉強した方がいいし。みんなでやる方が効率いいでしょ」
正論だ。
完璧美少女らしい、整った答え。
「山科さんも来るんだっけ?」
不意に出た名前に、俺は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……来るらしいけど」
結月は「ふうん」と小さく相槌を打つ。
それだけ。
なのに、なぜかその一音がやけに重い。
「仲いいよね」
「そうでもない」
即答すると、結月は一度だけこちらを見る。
視線が合い、すぐに逸らされた。
「そう?」
声音は軽い。
でも、歩調がわずかに速くなる。
「佐倉くんって、ああいう場に呼ばれやすいよね」
「……普通だと思うけど」
「うん。普通」
そう言って、結月は笑った。
完璧な微笑み。
誰に見せても、何も疑われない顔。
けれど、その笑顔の裏側に、何かが引っかかる。
「行くなら、行くって言っていいよ」
結月は足を止め、振り返る。
「私は大丈夫だから」
その「大丈夫」が、どこにも根拠を持っていない気がした。
「……無理してないか?」
思わず、そんな言葉が出る。
結月は一瞬、目を丸くしてから、すぐに首を振った。
「無理? してないよ」
少しだけ強い口調。
「恋人のフリでしょ。こういうの、いちいち気にする関係じゃない」
正しい。
全部、正しい。
「だから」
結月は言葉を継ぎ足す。
「行ってもいいと思う」
また同じ言葉。
でも今度は、さっきより少しだけ速く、少しだけ軽く。
「私、待つ必要もないし」
その一言が、胸の奥に残った。
待つ必要がない。
それは、関係を線で区切る言葉だ。
「……分かった」
俺がそう答えると、結月はほっとしたように息を吐く。
その仕草は一瞬で、すぐに整えられる。
「じゃあ、決まりだね」
そう言って、彼女は歩き出す。
並んで歩きながら、俺は結月の横顔を盗み見る。
穏やかで、落ち着いていて、いつも通り。
なのに。
「……楽しんできて」
別れ際、結月はそう言った。
声は優しい。
けれど、その言葉の最後が、ほんのわずかに揺れた。
行ってほしくない。
でも、言えない。
行ってもいい。
でも、本当は嫌。
その矛盾を、結月は自分でも持て余している。
だからこそ、強がる。
「偽恋人なんだから」
そう言い聞かせるみたいに。
俺は何も言えず、ただ頷いた。
その瞬間、はっきりと分かってしまう。
――これは、ただの違和感じゃない。
結月は、自分で気づいていないだけで、
確かに何かを失うことを、怖がっている。
その“何か”が何なのかを、
俺もまだ、言葉にできないままでいた。
校門を出て少し歩いたところで、俺は足を止めた。
結月は一歩先を行きかけて、気づいて振り返る。
「……どうしたの?」
いつも通りの声。
行ってもいいよ、と言ったときと同じ、落ち着いたトーン。
でも、その奥にあるものを、俺はもう見逃せなくなっていた。
結月は平然とした顔で立っている。
けれど、指先が鞄の持ち手を強く握っている。
無意識の癖だ。
感情を隠そうとするとき、いつもそうなる。
――行ってほしくない。
言葉にしないまま、必死に押し込めている感情。
それが、空気みたいに伝わってくる。
(……なんで、俺はそれが分かるんだ)
考えるより先に、胸が動いた。
「勉強会のことだけど」
そう言った瞬間、結月の肩がわずかに強張る。
それでも、彼女は微笑んだ。
「うん。行くんでしょ?」
その問いは、確かめるためのものじゃない。
自分に言い聞かせるための言葉だ。
結月の中で、何かがせめぎ合っている。
行ってほしくない。
でも、言えない。
言ったら、この関係が壊れる気がするから。
――拒否したいのに、拒否できない。
その矛盾が、痛いほど伝わってくる。
「……行かない」
俺は、そう言っていた。
結月の目が、はっきりと見開かれる。
「え?」
「今日はやめとく」
理由は言わない。
言えないんじゃない。
言わなくていいと思った。
一瞬の沈黙。
結月は何も言わず、ただ俺を見る。
そして、ほんの一瞬だけ――
心底ほっとした顔をした。
すぐに、取り繕うように視線を逸らす。
「……無理しなくていいのに」
強がった声。
でも、その震えは隠せていなかった。
行かないでほしい。
そう思っていたことを、結月自身が一番驚いている。
言葉にできなかった初めての拒否。
それを、俺が先に拾ってしまっただけだ。
この瞬間、はっきり分かった。
――もう俺たちは、「偽」だけじゃいられない。
駅前の分かれ道で、結月は立ち止まった。
夕方の風に前髪が揺れ、その隙間から、ほんの一瞬だけ感情が零れる。
俺が「行かない」と言った、その直後だった。
安堵。
それを隠しきれなかった顔。
胸の奥が、きゅっと縮む。
結月自身も気づいていない速さで、彼女は表情を整える。
「……そっか」
それだけ。
声は軽く、いつも通り。
「無理しなくていいって言ったのに」
言葉は整っているのに、指先が落ち着かない。
鞄の持ち手を一度握り直して、離す。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って微笑む。
完璧な、誰に見せても問題のない笑顔。
けれど、その裏で、行き場を失った感情が渦を巻いているのが分かってしまう。
喜んでいいのか、否定しなければならないのか。
名前をつけられないまま、胸の奥に溜まっていく。
俺も同じだった。
行かない理由を、はっきり言葉にできない。
言ってしまえば、何かが壊れる気がして。
二人の間に残ったのは、説明のつかない静けさだけだった。
それを“偽恋人だから”と説明するには、
あまりにも彼女は嬉しそうに見えた。
次の更新予定
2026年1月14日 12:00
クラス一の完璧美少女と偽恋人になったら、俺にだけ本音が甘すぎる 海鳴 雫 @uminari_sizuku
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