第4話 偽恋人なのに、独占欲みたいなものが生まれた
朝の校門前で、結月はいつも通り待っていた。
距離も、立ち位置も、変わらない。
「おはよう、悠斗くん」
声も、表情も、完璧だ。
けれど――どこかが違う。
並んで歩き出しても、会話が続かない。
いつもなら自然に出てくる他愛ない一言が、今日はなかった。
「……どうかした?」
そう聞くと、結月は一瞬だけ視線を逸らす。
「別に」
短い返事。
それ以上、何も言わない。
教室に入ってからも同じだった。
席は隣。距離も近い。
それなのに、結月は必要以上に俺を見ない。
プリントを揃えてくれる手つきも、どこか事務的だ。
――俺、何かしたか?
昨日のことを思い返す。
変なことを言った覚えはない。
距離を詰めすぎたか?
それとも、逆に突き放したか?
分からない。
演技のはずの関係なのに、
結月の態度一つで、こんなにも気になる自分がいる。
その事実に気づいた瞬間、
胸の奥が、静かにざわついた。
昼休み、俺は廊下で呼び止められた。
「佐倉くん」
振り向くと、クラスメイトの女子――山科さんが立っていた。
目立つタイプじゃないが、誰とでも分け隔てなく話す、いわゆる“感じのいい人”だ。
「この前の数学、ノート見せてもらってもいい?」
「ああ、いいけど」
何の気なしに答え、鞄からノートを取り出す。
それだけの、ただの用事。
「助かる。佐倉くん、字きれいだよね」
「そうか?」
「うん。見やすい」
そのやり取りの途中で、視線を感じた。
――結月だ。
少し離れた場所に立ち、こちらを見ている。
表情はいつも通り整っているのに、なぜか目だけが冷えて見えた。
「ありがとう。すぐ返すね」
山科さんがそう言って去っていく。
その背中を見送ったあと、結月がゆっくり近づいてきた。
「……誰?」
声は穏やかだった。
けれど、いつもより低い。
「クラスの子だよ。ノート貸しただけ」
「ふうん」
それだけ言って、結月は俺の隣に立つ。
距離が、ほんの少し――いや、明確に近い。
袖が触れる。
昨日までより、確実に。
「仲、良さそうだったね」
軽い言い方。
でも、その言葉の裏に、妙な引っかかりがあった。
「そうでもないだろ」
そう答えると、結月は一瞬だけ口を閉ざし、それから微笑む。
「そっか」
それ以上、何も言わない。
けれど、腕は離れなかった。
その沈黙が、妙に重い。
――俺、何か悪いことをしたか?
そう考えてしまう自分に、遅れて気づく。
ただ話しただけだ。
恋人でもない。
演技の関係だ。
なのに。
結月の指先が、俺の袖をきゅっと掴む。
無意識みたいな動きだった。
その仕草が、はっきりと物語っていた。
彼女は、気にしている。
理由を言葉にしないまま、確かに――。
放課後、校舎を出てからしばらく、結月はほとんど喋らなかった。
並んで歩いているのに、会話の間に、わずかな隙間がある。
「……今日、部活ないの?」
沈黙に耐えきれず、俺がそう切り出すと、結月は一拍遅れて頷いた。
「うん。ないよ」
声は平坦。
いつもなら、そこから何か一言付け足すのに、それもない。
駅へ向かう道の途中、人通りが少なくなる。
自然と二人きりの空気になるはずなのに、今日はそれが落ち着かない。
「さっきのさ」
俺は歩きながら、昼休みのことを思い出していた。
「山科さんのノートの件だけど――」
その名前を口にした瞬間、結月の歩調が、わずかに速くなった。
「別に」
被せるように、短い返事。
「気にしてないから」
そう言われると、それ以上言葉を続けづらい。
けれど、明らかに様子がおかしい。
「ただ、用事だったんだよ」
念のために説明すると、結月は一瞬だけこちらを見る。
「分かってる」
即答だった。
でも、その声には、ほんの少しだけ棘が混じっている。
「ノート貸しただけでしょ?」
「そう」
「それなら、何も問題ない」
そう言い切りながら、結月は俺の袖を掴まない。
昨日までなら、無意識に触れていたはずの距離に、今日は線が引かれている。
その違和感が、妙に胸に引っかかる。
「……じゃあ、なんで怒ってるんだ?」
思わず、そんな言葉が出てしまった。
結月は足を止めた。
一瞬、驚いたように目を見開き、それから少し困った顔になる。
「怒ってないよ」
すぐに、いつもの完璧な笑顔を作る。
「そんなふうに見えた?」
「……見えた」
正直に答えると、結月は視線を逸らした。
「気のせいだと思う」
そう言いながら、彼女はまた歩き出す。
けれど、さっきよりも、さらに距離が空いている。
――分からない。
何が地雷だったのか。
そもそも、地雷なんてある関係じゃないはずだ。
偽恋人。
演技。
そういう前提を、結月の方が一番よく分かっているはずなのに。
「山科さん、優しそうだったね」
突然、結月が言った。
声は落ち着いている。
でも、その言葉は、明らかに脈絡がない。
「……そうか?」
「うん。話しやすそう」
褒めているはずなのに、なぜか空気が冷える。
「佐倉くん、ああいうタイプと仲良くなりやすいよね」
何気ない一言。
けれど、胸の奥がざわつく。
「別に、仲良いわけじゃない」
そう答えると、結月は一瞬だけ立ち止まり、すぐに歩き出した。
「……ふうん」
その返事は、短くて、曖昧だった。
少し沈黙が続く。
やがて、結月は小さく息を吐く。
「ごめんね」
唐突な謝罪。
「私、今日はちょっと変かも」
「……そうだな」
否定できなかった。
結月は、困ったように笑う。
「理由、分からないんだけど」
本当に分からない、という顔だった。
演技でも、誤魔化しでもない。
「なんか……落ち着かなくて」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられる。
「私、変だよね」
自嘲気味に言いながら、結月は俺を見ない。
「偽なのに」
その一言が、重い。
「佐倉くんが誰と話してても、気にする立場じゃないのに」
理屈は、正しい。
でも、感情は追いついていない。
結月は、そこで初めて俺の方を見た。
「だから……気にしないで」
そう言って微笑む。
けれど、その笑顔は、いつもより少しだけ硬かった。
自覚はない。
けれど確かに、そこには感情がある。
それが何なのか、結月自身も分かっていない。
だからこそ、その不機嫌は、隠しきれずに滲み出ていた。
俺は何も言えず、ただ隣を歩き続ける。
この距離が、これ以上離れないようにと、
無意識のうちに願っている自分に気づきながら。
駅前に差しかかるころには、結月の表情はほとんど元に戻っていた。
さっきまでの張りつめた空気が、嘘みたいに。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って手を振る姿は、いつも通りの完璧美少女だ。
昼休みのことも、放課後の会話も、もう終わった話みたいに。
――なのに。
俺だけが、置いていかれている感覚だった。
歩き出してからも、頭の中に残るのは、結月の一瞬の不機嫌そうな横顔。
怒っているわけじゃない。
責めてきたわけでもない。
それでも、あの空気が、やけに引っかかる。
(……なんで、こんなに気になるんだ)
山科さんと話しただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
結月も、ちゃんと分かっていた。
理屈では、納得していた。
だから、もう説明する必要はない。
それなのに――
彼女が少しだけ距離を取ったこと。
言葉が減ったこと。
それが、無性に嫌だった。
(嫌、って……)
そこで初めて、自分の感情に立ち止まる。
怒られたくないわけじゃない。
誤解されたくないわけでもない。
ただ、結月が不機嫌そうなのが、嫌だった。
理由は分からない。
でも、あの柔らかい空気が消えるのが、怖かった。
偽恋人。
演技の関係。
そう割り切っているはずなのに、
彼女の感情の揺れ一つで、こんなにも心が乱される。
(……おかしいな)
心の中で呟く。
本物の恋人でもない。
守る義務も、説明する責任もない。
それでも俺は、
「もう一度、あの表情を見たい」なんて思ってしまっている。
不機嫌じゃない、いつもの結月。
隣で、自然に笑っている彼女。
――それを望んでいる時点で。
たぶん、もう。
この関係を「ただのフリ」だと呼ぶのは、無理なんだと思った。
そう自覚してしまった感情を、
俺はまだ、名前もつけられないままでいる。
次の日の朝、校門前で結月はいつも通り待っていた。
距離も、立ち位置も、昨日までと変わらない。
「おはよう、悠斗くん」
声も、笑顔も、完璧だ。
昨日の不機嫌なんて、最初からなかったみたいに。
並んで歩き出すと、結月は何も言わず、ほんの少しだけ俺に近づいた。
肩が触れそうな距離。
けれど、触れない。
それが、逆に意識させる。
廊下ですれ違うクラスメイトが、俺に軽く手を振った。
昨日ノートを貸した、山科さんだ。
「おはよ」
短い挨拶。
それだけ。
俺が返事をする前に、結月の歩調が変わった。
自然な動きで、俺の腕に指先が触れる。
掴まない。
引き寄せない。
ただ、そこにあることを主張するみたいに。
結月は何も言わない。
視線も向けない。
それでも、その距離が、はっきりと答えだった。
――離れないで。
言葉にしない感情が、そう伝えてくる。
俺は何も言わず、そのまま歩き続けた。
彼女の指先が離れないことを、否定しなかった。
完璧美少女の横顔は、いつも通り穏やかで。
その内側にある独占欲を、誰も知らない。
たぶん、結月自身でさえ。
けれど俺だけは、気づいてしまった。
この沈黙は、
この距離は、
もう「偽り」では守りきれないところまで来ている。
そう確信しながら、
俺は今日も、彼女の隣を歩いていた。
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