第3話 偽恋人になったら、日常が少しだけ甘くなった
偽恋人になって三日目。
俺は、自分でも驚くくらい普通に朝を迎えていた。
「おはよう、悠斗くん」
校門の前で待っていた天宮結月は、昨日までと同じように手を軽く振る。
それを見て、俺は立ち止まることもなく、自然に隣へ並んだ。
……おかしい。
ついこの前まで、会話らしい会話すらしていなかったはずなのに。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「まあ……普通に」
「そっか。よかった」
それだけのやり取り。
甘い言葉も、特別な仕草もない。
なのに、周囲の視線が気にならなくなっている自分に気づいて、少しだけ戸惑う。
演技だ。
偽恋人だ。
そう思い出すたびに、結月の隣を歩くこの時間が、思った以上に“日常”に溶け込んでいることを実感してしまう。
そして、その事実が、なぜか少しだけ――心地よかった。
教室に入ると、結月は迷うことなく俺の隣の席に腰を下ろした。
それが、もう特別なことじゃないみたいに。
「プリント、もう配られた?」
「いや、まだ」
そう答えると、結月は自分の机を軽く確認してから、俺の分も一緒に整えてくれる。
その動作が自然すぎて、つい見入ってしまった。
「はい。あとで取りに行かなくていいように」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
それだけのやり取りなのに、周囲の空気がわずかにざわつく。
女子の視線。男子のひそひそ声。
けれど結月は、気づいていないのか、気にしていないのか、いつも通りだった。
昼休みになると、今度は購買の話になる。
「悠斗くん、今日はパンでいい?」
「え、俺は——」
「はい決定」
有無を言わせず腕を引かれ、人の流れに紛れて歩く。
近い。けれど、もう驚かなくなっている自分がいた。
「……慣れてきたね」
ぽつりと結月が言う。
「何が?」
「恋人のフリ」
そう言って微笑む彼女は、どこまで本気で、どこまで演技なのか分からない。
ただ一つ確かなのは、この日常が、少しずつ当たり前になり始めているということだった。
昼休みの喧騒を抜けて、校舎裏のベンチに腰を下ろす。
ここは人通りが少なく、昼の時間帯でも不思議と静かだ。
「……落ち着くね、ここ」
結月がそう言って、紙パックのジュースを差し出してくる。
俺が買ったはずのものなのに、いつの間にか彼女の手にあった。
「それ、俺のじゃなかったか?」
「そうだよ」
悪びれる様子もなく、結月はストローを差して一口飲む。
「一口くらい、いいでしょ?」
拒否する理由を探す前に、もう遅かった。
結月は自然な動作で、今度はそれを俺の方へ差し戻してくる。
「はい」
……間接キス、なんて言葉が頭をよぎった時点で負けだ。
俺は何も考えないふりをして、受け取った。
「どう?」
「……普通」
「そっか」
それだけで会話が途切れる。
沈黙が、気まずくならない。
結月はベンチに深く腰掛け、空を見上げた。
風に揺れる前髪が、目にかかる。
「ねえ、悠斗くん」
「ん?」
「こうしてるとさ……本当に、普通のカップルみたい」
一瞬、返事に詰まった。
否定するべきか、冗談として流すべきか。
「……偽だけどな」
そう言うと、結月は小さく笑った。
「分かってるよ」
でも、その声はどこか優しい。
「でもね。悠斗くんといると、変に気を張らなくていい」
視線が合う。
距離は、昼休みのベンチ一つ分。
なのに、近いと感じる。
「完璧でいなくていいっていうか……楽」
その言葉が、胸に残る。
「それは……よかったな」
精一杯の無難な返答。
結月は少し不満そうに唇を尖らせた。
「もう少し、ちゃんと聞いてくれてもいいのに」
「どう返せばいいか分からないだけだ」
そう言うと、結月は一瞬驚いてから、くすっと笑った。
「そっか。じゃあ、それでいい」
肩が、触れた。
偶然かどうか分からない距離。
どちらも動かない。
演技のはずだ。
偽恋人のはずだ。
それなのに、この何気ない時間が終わるのが、少しだけ惜しいと思っている自分に気づいてしまった。
ベンチを離れて教室へ戻る途中、俺は自分の歩幅が、結月に合わせられていることに気づいた。
意識しなければ、こんなことはしない。
――演技だ。
何度も、頭の中でそう繰り返す。
偽恋人。期限付きの関係。元に戻る前提。
なのに、さっきの時間を思い返すと、胸の奥が妙に温かくなる。
気を張らずにいられる会話。沈黙すら気にならない距離。
あれは、演技で作れるものだっただろうか。
「……楽しかったな」
思わず、そんな言葉が零れてしまう。
慌てて口を閉じる。
楽しいなんて思ってはいけない。
これは“フリ”なんだから。
それでも、結月と並んで歩くこの日常が、当たり前になりつつあることを否定できなかった。
もし、この関係が終わったら。
また、以前みたいに、ただのクラスメイトに戻れるのか。
結月が誰にでも向ける完璧な笑顔を、
俺はもう、平気な顔で見られるだろうか。
――無理だろうな。
そう思ってしまった時点で、もう遅い気がした。
演技のはずなのに、楽しい。
偽りの関係なのに、失いたくない。
その違和感が、確かに――俺の中で芽を出し始めていた。
放課後、校舎を出るころには、空が少しだけ赤く染まっていた。
帰り道、結月はいつものように俺の隣を歩く。
「今日は静かだね」
そう言われて、初めて気づく。
俺はほとんど、何も喋っていなかった。
「考えごと?」
「……まあ」
曖昧に返すと、結月はそれ以上踏み込まず、ただ歩調を合わせてくれた。
その気遣いが、自然すぎて胸に引っかかる。
駅前で足を止める。
ここで別れるのも、もう当たり前になっていた。
「また明日ね、悠斗くん」
軽く手を振る、その仕草も。
「……ああ」
短く返事をした瞬間、結月は一歩だけ近づいて、俺の袖を掴んだ。
ほんの一瞬。
すぐに離れる。
「無理しなくていいから」
小さな声だった。
「偽でも……今は、これでいいよ」
そう言って微笑む彼女は、完璧で、でもどこか柔らかい。
俺は何も言えず、ただ頷いた。
背中を向けて歩き出したあと、胸の奥に残ったのは、静かな違和感だった。
これは“フリ”の関係だ。
そう分かっているのに。
――このまま終わらなかったら、どうなるんだろう。
その問いに答えが出ないまま、
俺は明日も、彼女の隣を歩くのだろうと思っていた。
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