第2話 偽恋人のはずなのに、距離感が近すぎる
翌日の朝、教室に入った瞬間から、空気が違った。
視線が、やけに集まる。
ひそひそとした声が、あちこちから聞こえてくる。
「……マジだったんだ」
「昨日の、嘘じゃなかったんだな」
俺は何も聞いていないふりをして、自分の席に向かった。
心臓の音が、やけにうるさい。
――昨日、天宮結月と付き合っていると宣言した。
正確には、“付き合っていることになった”。
それだけのはずなのに、世界が少しだけ変わった気がする。
「おはよう、悠斗くん」
聞き慣れない呼び方に、思わず顔を上げた。
天宮結月が、いつもと変わらない完璧な笑顔で立っている。
……いや、少しだけ違う。
俺の机のすぐ横。
近すぎる距離。
「今日は一緒に行こうと思って」
そう言って、何でもないことのように微笑む。
周囲のざわめきが、一段と大きくなった。
待ってくれ。
これは演技だ。
偽恋人だ。
そう自分に言い聞かせるのに、彼女との距離が近すぎて、思考が追いつかなかった。
教室を出て廊下に出た瞬間、視線の密度が一気に上がった。
「……やっぱ付き合ってるんだ」
「昨日の噂、本当だったんだな」
そんな声が、わざと聞こえるように落ちてくる。
俺は背中がむず痒くなり、無意識に歩幅を早めた。
そのとき、袖が軽く引かれる。
「待って」
天宮結月が、当たり前のように俺の隣に並んだ。
距離は、肩が触れそうなほど近い。
「そんなに早く歩いたら、置いていかれちゃう」
困ったように笑うその表情は、誰が見ても“彼女”のものだった。
周囲から、明らかに空気が変わるのを感じる。
「……あれ、距離近くね?」
「ガチだこれ」
小声が、刺さる。
結月は気にした様子もなく、俺の腕にそっと手を添えた。
掴むほどではない、触れているだけの距離。
なのに、やけに意識してしまう。
「恋人なんだから、これくらい普通でしょ?」
小さな声で、そう囁かれる。
普通じゃない。
少なくとも、俺にとっては。
けれど否定する前に、女子の視線が一斉にこちらに向くのが分かった。
今ここで距離を取れば、それこそ不自然だ。
「……そうだな」
短く答えると、結月は満足そうに微笑んだ。
その笑顔が、演技なのかどうか。
判断する余裕はなかった。
ただ一つ分かったのは――
“偽恋人”という設定が、思っていた以上に本気で演じられ始めている、ということだけだった。
放課後、人の流れが校門へ向かう中で、結月は自然な動作で俺の隣に並んだ。
誰かに見られているわけでもないのに、距離は昼間と変わらない。
「……疲れたね」
ぽつりと落とされた声は、教室で聞くものよりずっと柔らかい。
肩の力が抜けた音がした。
「今日は頑張りすぎだろ」
そう返すと、結月は一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「見てた?」
「分かるくらいには」
並んで歩く足音が、妙に揃っていることに気づく。
近い。意識しない方が無理な距離だ。
「……ねえ、悠斗くん」
名前を呼ばれるたびに、心臓が一拍遅れる。
結月は前を向いたまま、少しだけ声を落とした。
「さっきさ。廊下で手、引いたでしょ」
「……ああ」
「ありがとう」
理由も説明もなく、ただそれだけ。
でも、その一言がやけに重かった。
「恋人のフリ、ちゃんとしてくれてるなって思って」
そう言いながら、結月は歩調を緩める。
結果、さらに距離が詰まった。
「……近い」
思わず口にすると、結月は足を止めた。
そして、こちらを見上げる。
「嫌?」
即答できなかった。
その沈黙を、彼女は都合よく受け取ったらしい。
「よかった」
そう言って、何でもないことのように微笑む。
距離は、戻らない。
演技だ。
分かっている。
それなのに――
二人きりになると、彼女の距離感は、明らかにおかしくなっていた。
歩道に出たところで、俺は足を止めた。
夕方の空気が、少し冷たい。
「……天宮」
名前を呼ぶと、結月は不思議そうにこちらを見る。
「さっきから、ちょっと近すぎる」
言葉を選んだつもりだった。
責めるつもりも、拒絶するつもりもない。
「これは偽だろ。俺たち」
そう言った瞬間、結月の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……うん」
すぐに、いつもの微笑みに戻る。
でも、どこかぎこちない。
「分かってるよ。勘違いしないで」
彼女は、軽い調子で言った。
「これは、恋人のフリ」
そう言いながら、距離を取るかと思いきや――取らない。
むしろ、少しだけ詰めてくる。
「でも」
結月は視線を逸らし、小さく続けた。
「近くにいるくらい、いいでしょ?」
否定しきれなかった。
その沈黙に、結月は安心したように息を吐く。
「大丈夫。ちゃんと線は引くから」
その言葉が、本当かどうか。
分からないまま、俺は頷いていた。
駅前の交差点に差しかかり、人の流れが二手に分かれた。
ここで別れる――それだけのはずだった。
「……じゃあ、また明日」
俺がそう言うと、結月は足を止めたまま、こちらを見上げる。
「もう?」
その一言に、胸が小さく跳ねる。
「恋人なんだから、帰るところまで一緒でもいいんじゃない?」
冗談めいた口調。
けれど、目は冗談じゃなかった。
「……それ、演技の範囲か?」
俺が聞くと、結月は少しだけ困ったように笑う。
「さあ。どうだろ」
そう言って、俺の袖を掴む。
昨日と同じはずの仕草なのに、指先の感触がやけに生々しい。
「嫌なら、離すよ?」
試すような声。
俺は、すぐに答えられなかった。
「……嫌じゃない」
そう答えてしまった自分に、少し遅れて気づく。
結月は、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった」
そのまま、袖を掴んだ手を離さない。
「ねえ、悠斗くん」
小さな声で呼ばれる。
周囲の雑踏が、遠くに感じられる。
「これは偽だけど……」
一拍、間が空く。
「こうしてるの、私は嫌じゃない」
その言葉は、約束を踏み越えていた。
線を引くと言った口で、線の内側に足を踏み入れている。
「勘違いしないで」
結月は、いつもの台詞を口にする。
「これは、恋人のフリだから」
そう言いながら、俺の手をぎゅっと握る。
もう、袖じゃない。
指だ。
――演技のはずなのに。
離せなかった。
この瞬間、はっきりと分かった。
俺たちの“偽り”は、もう安全な距離に戻らない。
距離感は、確実に――バグり始めていた。
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