クラス一の完璧美少女と偽恋人になったら、俺にだけ本音が甘すぎる

海鳴 雫

第1話 完璧美少女の秘密を俺だけが知ってしまった

朝の教室は、いつも同じ光景から始まる。

席に着く前から、クラスの空気がわずかに整う瞬間がある。


天宮結月が登校してくる、その一瞬だ。


「おはようございます」


柔らかく微笑み、誰に対しても分け隔てなく声をかける。

男子には適度な距離感、女子には安心感。近すぎず、遠すぎず。

完璧美少女――それが、クラス全員の共通認識だった。


俺、佐倉悠斗にとっても同じだ。

特別に話すこともなければ、関わる理由もない。ただ同じ教室にいるだけの存在。

彼女は高嶺の花で、俺はその根元にも届かない場所にいる。


だから、その日の放課後。

誰もいない校舎の一角で、天宮結月が小さくため息をつく姿を見てしまったとき――

それが、この関係の始まりになるなんて、想像もしなかった。


放課後の校舎は、昼間とは別の顔をしている。

人の気配が薄れ、廊下に残るのは靴音の反響と、遠くの部活動の掛け声だけだ。


俺は担任に呼び止められ、提出物の確認を終えたあと、少し遠回りして昇降口へ向かっていた。

いつもは使わない旧校舎側の通路。近道というほどでもないが、人が少なくて静かだ。


その角を曲がったとき、視界の端に見慣れた姿が映った。


天宮結月。


一瞬、目を疑った。

放課後まで残るタイプじゃない。彼女はいつも、部活に所属しているわけでもなく、誰かと長話をすることもない。授業が終われば、きれいに整えた笑顔のまま、颯爽と帰っていく――はずだった。


彼女は、空き教室の前で立ち止まっていた。

扉は半分ほど開いていて、中には誰もいない。


声をかけるべきか迷い、結局、そのまま通り過ぎようとして――足が止まった。


中から、かすかな音が聞こえたからだ。


椅子がきしむ音。

それから、ふう、と空気が抜けるような息。


扉の隙間から見えた天宮結月は、朝の教室で見る姿とはまるで違っていた。

背筋は少し丸まり、机に手をついて、視線を落としている。

いつもなら絶対に崩さないはずの姿勢が、無防備に緩んでいた。


俺は、そこにいるべきじゃなかった。

そう思ったのに、なぜか視線を逸らせなかった。


彼女は誰もいない教室で、ほんの一瞬だけ――

完璧であることを、やめているように見えた。


俺は、その場から離れるべきだった。

見なかったことにして、気づかなかったふりをして、帰ればよかった。


そう思ったのに、体は動かなかった。


空き教室の中で、天宮結月は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと背もたれに身を預けた。

長く、深いため息が漏れる。


「……つかれた」


誰に聞かせるでもない、かすれた声。

朝の澄んだ声とは似ても似つかない、素の音だった。


彼女は鞄からスマートフォンを取り出し、画面を一度見つめてから、通話ボタンを押す。

相手が出るまでの短い沈黙のあいだ、結月は天井を仰いだ。


「うん……大丈夫。うん、今日もちゃんとやったよ」


声の調子は少しだけ整えられていたが、完全じゃない。

無理に笑おうとして、失敗しているのが分かる。


「……平気って言えば、平気だけどさ」


その言葉のあと、間が空いた。

結月は机の縁を指でなぞりながら、小さく唇を噛む。


「正直、しんどいよ。期待されるのも、優等生でいなきゃいけないのも」


胸の奥が、ひくりと鳴った。


「誰にでも優しくしろって言われてるみたいで……でも、誰にも本当のこと言えない」


その声は、泣いてはいなかった。

けれど、泣く一歩手前の、どうしようもない疲れを含んでいた。


結月はスマートフォンを耳から離し、通話を切る。

画面を伏せるように机に置いてから、額を机に軽くぶつけた。


「……やめたい、なんて言えたら楽なのに」


そう呟いたあと、彼女はしばらく動かなかった。

肩が上下するのを、俺はただ見ていた。


――違う。


俺が知っている天宮結月は、こんなふうに弱音を吐かない。

誰かに寄りかかることも、自分のしんどさを口にすることもない。


なのに今、目の前にいる彼女は、完全に一人の少女だった。


「……はあ」


もう一度、小さなため息。


その瞬間、結月の肩がぴくりと揺れた。

視線が、扉の方を向く。


目が合った。


数秒。

いや、もっと短かったかもしれない。

でも、その沈黙は、異様なほど長く感じられた。


「……いつから?」


低い声。

作り笑いも、取り繕いもない。


俺は、逃げるという選択肢を失った。


「……ごめん。通りかかっただけで。聞くつもりは、なかった」


言い訳はしなかった。

聞いてしまった事実だけが、そこにあった。


結月はしばらく俺を見つめてから、ふっと息を吐く。

そして、いつもの完璧な表情を作ろうとして――失敗した。


苦笑いのような、諦めたような表情で、彼女は言った。


「……見られちゃった、か」


その一言は、完璧美少女が崩れた音だった。


教室の空気が、凍りついたまま動かない。

扉の隙間から差し込む夕方の光が、床に細長い影を落としている。


天宮結月は、俺から視線を逸らさなかった。

責めるようでもなく、助けを求めるでもない。ただ、逃げ場を失った人の目だった。


「……いつから?」


もう一度、同じ問いが落ちる。


俺は一瞬、喉が鳴るのを感じた。

ここで下手な言い訳をすれば、彼女の中で何かが完全に壊れる気がした。


「……ため息をついたところ、くらいから」


正直に答える。

言葉を選ばなかったのは、優しさでも勇気でもなく、これ以上取り繕う術がなかったからだ。


結月は、ほんの少しだけ目を伏せた。

その仕草が、なぜかひどく人間らしく見えた。


「全部、聞いた?」


「……ごめん。聞こうとして聞いたわけじゃない」


言ってから、遅いと分かっていた。

聞いてしまった事実は消えない。


沈黙。

教室の外から、誰かの笑い声がかすかに聞こえる。

この場所だけが、世界から切り離されたみたいだった。


結月は椅子から立ち上がり、机に手をつく。

朝、教室で見る完璧な立ち姿とは違う。ほんの少し、体重を預けている。


「……最低、だよね」


自嘲気味な声。


「優等生ぶって、余裕あるふりして。裏じゃこんなこと言って」


俺は首を振った。


「最低じゃない」


その言葉は、考えるより先に口から出ていた。


結月が、驚いたようにこちらを見る。


「だって……疲れるだろ。ずっと完璧でいろって言われ続けたら」


自分でも不思議なくらい、自然に言えた。

慰めるつもりも、励ますつもりもなかった。ただ、見たままを口にしただけだ。


結月はしばらく黙っていた。

それから、ふっと小さく笑う。


「……やっぱり、変」


「そうかもな」


俺は視線を逸らさなかった。

逃げなかった。


ここで背を向けたら、彼女はまた一人で完璧を演じる場所に戻ってしまう気がしたからだ。


「普通さ」


結月は静かに言う。


「ここまで見たら、距離置くでしょ。気まずいし、面倒だし」


「……そうか?」


「そうだよ」


少しだけ、強い口調。


「私の秘密、知っちゃったんだから」


秘密。

その言葉が、胸に落ちる。


「だったらさ」


俺は一歩だけ、教室の中に踏み出した。


「誰にも言わない。それでいいだろ」


結月は目を見開いた。


「……それだけ?」


「それだけ」


簡単に言っている自分に、内心で驚いていた。

けど、不思議と後悔はなかった。


結月は俺をじっと見つめ、やがて視線を落とす。


「……優しいんだね」


「違う」


すぐに否定する。


「俺が逃げる理由がないだけだ」


沈黙が落ちる。

だが、さっきまでの重さとは違っていた。


結月は小さく息を吐き、肩の力を抜く。


「……ねえ、佐倉くん」


初めて、名前を呼ばれた。


「もしさ」


一瞬、言葉を探すように唇を噛んでから、彼女は続けた。


「この秘密、もっと大きくなったら……手伝ってくれる?」


それは、冗談とも本気とも取れない声音だった。


俺は少しだけ考えてから、答える。


「内容次第」


結月は、くすっと笑った。


その笑顔は、朝の完璧な微笑みとは違う。

俺だけが見てしまった、本当の顔だった。


結月の笑顔が消えたあと、教室には静けさが戻った。

さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだような、でも完全には解けきらない、曖昧な間。


「……ねえ、佐倉くん」


結月は、机に腰を預けたまま、視線を泳がせていた。

俺を見るでもなく、床を見るでもなく、どこにも定まっていない。


「さっき言ったこと、覚えてる?」


「秘密が大きくなったら、ってやつか?」


そう答えると、結月は小さく頷いた。


「うん。あれね……もう、結構大きい」


その言葉に、胸がわずかにざわつく。


「最近、周りがうるさいの」


結月は淡々と話し始めた。

感情を押し殺すような口調だった。


「彼氏はいるのかとか、誰と付き合うのかとか。勝手に期待されて、勝手に噂されて……優しくしてるだけなのに、変な誤解もされるし」


それは、天宮結月だからこそ背負わされるものだ。

完璧美少女という肩書きの、裏側。


「距離を取ろうとしても、逆に冷たいって言われる。笑っても、勘違いされる」


自嘲気味に、結月は息を吐いた。


「……正直、もう疲れた」


その一言は、さっき聞いた弱音よりも、ずっと重かった。


俺は何も言えなかった。

慰めの言葉を探すほど、器用じゃない。


結月は、そこでようやく俺の方を見た。

真っ直ぐな視線。逃げ道のない目。


「だからね」


一拍、間が置かれる。


「佐倉くん、お願いがあるの」


嫌な予感は、しなかった。

ただ、これから言われることが、普通じゃないのは分かった。


「……俺に?」


「うん」


結月は、ほんの少しだけ躊躇ってから、言葉を続ける。


「私の、恋人になってほしい」


一瞬、意味が理解できなかった。


「……え?」


情けない声が漏れる。


「もちろん、本当じゃないよ」


すぐに、結月は付け足した。


「偽物。演技。形だけの関係」


そう言い切る声は、どこか必死だった。


「彼氏がいるって分かれば、みんな一歩引くでしょ。余計な期待も、変な視線も、全部なくなる。そうすれば……少しは、楽になれる」


理屈は、分かる。

分かるけど。


「なんで、俺なんだ?」


素直な疑問だった。


結月は少しだけ目を伏せ、指先を絡める。


「……佐倉くんは」


一度、言葉を切ってから。


「今日のこと、誰にも言わないって言った。私がどんな顔してても、逃げなかった」


小さな声。


「他の人だったら、きっと無理。優しすぎても、下心があっても、嫌」


そして、はっきりと。


「佐倉くんなら、安心できる」


胸の奥が、妙に熱くなる。


「でも」


俺はすぐに現実に引き戻した。


「俺は目立たないし、天宮と釣り合わない。周り、変に思うだろ」


結月は、即座に首を振った。


「それがいいの」


即答だった。


「派手じゃない。噂になりにくい。必要以上に踏み込んでこない」


……ずいぶん冷静な分析だ。


「条件は?」


俺は、半分冗談、半分本気で聞いた。


結月は少し考えてから、指を折る。


「学校では、恋人っぽく振る舞う」

「二人きりのときは……普通でいい」

「期限は、状況が落ち着くまで」


それから、少し間を置いて。


「あと」


結月は、ちらりと俺を見る。


「このこと、誰にも言わない」


「それは、さっき約束した」


俺がそう言うと、結月はほっとしたように息を吐いた。


沈黙。

教室の時計の音が、やけに大きく聞こえる。


「……断ってもいいよ」


結月は、視線を逸らしたまま言った。


「無理にとは言わない。迷惑なら——」


「迷惑じゃない」


俺は、考える前に答えていた。


結月が、はっと顔を上げる。


「ただ」


一拍置いて、続ける。


「勘違いはするなよ。俺は、ただの代役だ」


「……分かってる」


結月は小さく笑った。


「これは、偽だから」


その言葉に、なぜか少しだけ胸が痛んだ。


その瞬間、廊下から足音が近づいてくる。

誰かがこちらに向かってきている。


結月は一瞬だけ俺の腕を掴み、距離を詰めた。


近い。

思考が止まる。


「……ねえ、悠斗くん」


初めて、下の名前を呼ばれた。


小声で、囁くように。


「これから、よろしくね。私の——恋人役」


そう言って微笑む彼女は、もう教室で見る完璧美少女だった。

けれど、その距離の近さだけが、すべてを否定している。


——こうして俺は、

クラス一の完璧美少女と偽恋人になった。


その関係が、

俺にだけ本音が甘すぎるものになるとも知らずに。


翌朝の教室は、いつもと同じはずだった。

チャイムが鳴る前のざわめき。席に着く音。友人同士の他愛ない会話。


――ただ一つ違うのは、俺の心拍数だけだ。


「……おはよう」


登校してきた天宮結月は、いつも通りの完璧な微笑みで挨拶を返していた。

昨日の放課後、空き教室で見た弱い表情なんて、どこにも残っていない。


なのに。


俺と視線が合った瞬間、ほんの一瞬だけ、彼女の口元が緩んだ。


それだけで、心臓が跳ねる。

あれは――合図、だ。


「佐倉」


背後から声をかけられ、俺は肩を跳ねさせた。

クラスメイトの男子が、訝しげな顔でこちらを見ている。


「お前、今日なんか落ち着きなくね?」


「……そうか?」


誤魔化すように返すと、彼は首を傾げながら席に戻っていった。

無理もない。自覚はある。

昨日から、世界が一段階ズレて見える。


チャイムが鳴り、担任が入ってくる。

連絡事項が淡々と読み上げられ、朝のホームルームは終わった。


そして――その直後。


「……みんな、少しいい?」


天宮結月が、静かに立ち上がった。


一瞬で、教室の空気が変わる。

視線が集まるのは、彼女にとって日常だ。

けれど今日は、その視線の“質”が違った。


ざわ、と小さな波が立つ。


「天宮さん? どうしたの?」


女子の一人が声をかける。

結月は軽く息を吸い、俺の方を見た。


――来る。


分かっていたはずなのに、喉が鳴る。

言うのか?

今?

本当に?


「私……」


結月は一度、言葉を切った。

そして、はっきりと。


「佐倉くんと、お付き合いしています」


一瞬。


教室の音が、消えた。


次の瞬間。


「え?」


「……は?」


「ちょ、待って、佐倉って……あの佐倉?」


爆発するように、ざわめきが広がった。

視線が、今度は一斉に俺に向けられる。


嘘だろ。

本当に言った。


心臓が、耳の裏で鳴っている。


「ま、まじで?」


「いつから?」


「なんで!?」


男子の声、女子の声、入り乱れる。

中には、露骨に俺を値踏みするような視線もあった。


分かっている。

釣り合わない。

誰もがそう思っている。


「……ねえ、佐倉くん」


結月が、少しだけ首を傾げる。

その仕草は、完璧美少女そのものだった。


「何か、言って?」


――来た。


言うのか!?

という空気が、教室を満たす。


逃げ場はない。

昨日の俺なら、たぶん黙っていた。


けれど。


「……本当です」


俺は、立ち上がっていた。


声が震えないように、意識する。


「昨日から……付き合ってます」


瞬間、ざわめきがさらに大きくなる。


「昨日!?」


「急すぎだろ!」


「どこで知り合ったの!?」


質問が飛ぶ。

だが、結月が一歩前に出て、それを制した。


「詳しいことは、内緒です」


柔らかい笑顔。

けれど、そこには明確な“線引き”があった。


「プライベートなので」


その一言で、教室は妙に納得した空気になる。

天宮結月が言うなら、そうなのだろう、と。


俺の袖が、軽く引かれた。


「……ありがとう」


結月が、俺にだけ聞こえる声で言う。


「助かった」


その距離が、近い。

昨日よりも、確実に。


休み時間。

俺の席は、見事に包囲された。


「なあ、マジで?」


「どんな告白したんだよ」


「天宮さん、意外とそういうの好きなの?」


適当にかわしながら、視線を上げると、結月は女子に囲まれていた。

けれど、さっきまでの完璧な対応とは少し違う。


時々、俺の方を見る。

そして、安心したように微笑む。


――ああ。


分かってしまった。


これは、演技だ。

偽恋人だ。


なのに。


放課後、誰もいなくなった廊下で、結月は俺の隣を歩きながら言った。


「……ねえ、悠斗くん」


「何だよ」


「今日は、ちゃんと“恋人”してくれてた」


軽い調子なのに、どこか本音が混じっている。


「だから」


一拍。


「二人きりのときくらい、少し甘えてもいいよね?」


そう言って、腕に触れてくる。


近い。

昨日より、ずっと。


「勘違いしないで」


結月は、いつもの台詞を口にする。


「これは、偽だから」


そう言いながら、俺にだけ見せるその表情は――

どう見ても、甘すぎた。


この関係は、偽物だ。

分かっている。


それでも俺は、確信してしまった。


――この“偽り”は、きっと簡単には終わらない。


そう思った瞬間、

天宮結月が、俺にだけ小さく囁いた。


「ねえ……フォロー、外さないでね?」


その一言が、

俺の心を、完全に捕まえていた。

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